森に入ってはいけません。 第1話

日向という男は、9歳にしては見上げた根性のある子だった。 弟の面倒もちゃんと見るし、言われたことはきちんと守る。ある意味現実主義で真面目な子どもだった。 そんな日向だからこそ親はひとつ、試練を与えてみようと企んだ。 「ばーちゃん、来たぜ~」 無防備にも鍵のかかっていない玄関のドアを開き、日向は名前を大きな声で呼ぶ。 すると家の奥の方からくぐもった声で、 「順ちゃんかーい?」 と言ったのが聞こえてから、玄関に面した木の廊下が軋みはじめる。 昼間ということもあって、電気が一切付けられていない家は暗くてひんやりとしている。パタパタというスリッパの音と床の軋む音が不協和音を奏でる。 少し経ってから、家の奥の方から白髪の混じった黒髪のくせっ毛の老婆が現れた。目尻にできた皺が優しく下げられている。真冬にもかかわらず長袖を腕まくりしていた。年のわりに元気だな……日向は、苦笑する。 「いらっしゃい順ちゃん。今日は本当にひとりで大丈夫?」 「おう、俺だってもう小学の中学年だぜ? ばーちゃん家ぐらい、ひとりで泊まれるっての」 自信満々にそう言う日向は、胸を拳でドンと叩く。大船に乗ったつもりで任せろ、と言いたそうだが、逆に祖母の方は不安を隠せないでいた。 なんせこの子どもは変に大人ぶりたいところがあるのだ。しかしそれも、頑固なところがある彼に強く言ってしまうと拗ねられる。祖母として孫に嫌われるのはどうも、良い気がしなかった。 「炬燵つけてるからね。さあさあお入りなさい、外は寒かったでしょう? なんせ此処は田舎だからねぇ」 話題を強制的に変えた祖母は、外気に晒されたせいで頬っぺたが真っ赤な日向の肩を抱いて、家の中に招いた。冬真っ盛りの一月の半ば。都会では見られない雪が積もる地方の冬は、容赦なく子どもの体温を奪っていった。 日向は歩きなれた祖母の家の中を我が物顔で突き進む。いつも母親とともに泊まる際に使用していた2階の奥の部屋に荷物を置いてから、日向は部屋にあった大振りの達磨の張りぼてへ、 「おじゃまします」 と律儀に挨拶をした。ある一種の癖だった。 それから日向は階段を駆け下りて、リビングに走っていく。前の夏休みに来た時にはむき出しだった床に、炬燵が設置されてあった。 「こ~た~つ!!」 思わず日向の目が輝く。小さな家で都会暮らしをする日向の家では味わえない、田舎に来た時の楽しみの一つだ。 さっそく入り込もうとして、ふと思い出した靴下をいそいで脱いでから、炬燵の毛布を開く。ほーと息をつく日向を、後からリビングに入って来た祖母がみてクスクスと笑う。 「まるで年寄りみたいよ順ちゃん」 「ふへ~気持ちいい物は仕方ねえよ。ずっとこうしてたい~」 「あらあら、じゃあこれもどうぞ。おばあちゃんの姉さんが送ってくれたのよ。沢山だから持って帰ってちょうだいね」 「ミカン!」 テーブルに顎を擦り付けていたのを止め、日向は視界に入ったオレンジ色の果実に目をキラキラをさせる。眼鏡を直しながら日向は甘えたように、祖母が剥いてくれたミカンを一つ口に入れてもらい「美味しい」と満足げに笑う。 いくらお兄ちゃんぶっていようと所詮は9歳の子どもだ。日向は夢中でミカンを頬張っていた。口の中にぱんぱんに果実を詰めて、もごもごとしている。 それを笑いながら見ていた祖母は手元にミカンが無くなったことに気付き、もう一度取りに行こうかしら……と思案しながら顔を上げ、ふとカレンダーが目に入る。「あら」 「ん、どうかしたのか。ばーちゃん」 返事のない祖母を不審に思い日向が顔を向けると、祖母が心ここに在らずといったようにぼんやりとして、こう言った。 「順ちゃん。明日は家でじっとしておきましょうね」 「え~なんで?」 せっかくの田舎なのだから、積もった雪で遊ぼう! と計画していた日向は出鼻を挫かれて文句を垂れる。 ゲームなんか無い家でじっとするより、外でそり遊びや雪合戦をした方がはるかに楽しいに決まっている。そんなおあずけ状態を我慢できるほど日向は大人じゃなかった。 「前に友達になった上集落の笠松サンとか春日サンとか、遊ぶって約束したもん」 別にその約束が明日というわけじゃなかったが、反抗したくてそう強く主張する日向。 しかし祖母は聞かなかった。 いつもは孫に優しく大和撫子を絵に描いたようなしなやかさのある女性が、必死に咎めている。 その異様なまでの静止が、日向は不思議でしょうがない。 「それがそうもいかないのよ……お願いだから、聞いてちょうだい?」 「だって遊びたいし」 「そうだ、明日は私と編み物しましょう! きっと順ちゃんも気にいるわよ!」 「編み物なんて興味ねーし」 「それなら一緒に料理しましょ、ね?」 何故か丸め込もうとする祖母に、ますます不信感を募らせる。優しい口調は普段と何ら変わりはないが、眉が尋常じゃない寄せられ方をしていた。顔も心なしか固い。 ここまでくると日向の方もどうにもならないとは分かっていた。ので。 「……わかったよ」 そう洩らすと、祖母はあからさまにほっとしたように息を吐き、「ミカン取ってくるわね、待ってて」と言って表情を和らげてから立ち上がって、隣の部屋へと消えていった。 「なんだよ、気になる言い方して」 まるで歯に何か物が引っ掛かったような違和感を感じる。なにが、どうして、だめなのか、を全部教えてくれなかったせいだろうか。何一つ情報がないなかで禁止されては、日向の方も溜まったものじゃない。 故に日向は密かにある計画を企てていた。 ぜっったいに明日、何があるか確かめてやる! 元より日向は祖母の言いつけを守るつもりはなかった。 日頃約束を固く守る性分だからか、一度疑問に感じたことがあればなんとしても守りたくない! と反発心がこんなところにきて湧き上がってきた。 別に祖母を困らせたいわけじゃなかったが、理由を教えてくれないことには少々腹が立っていた。だってそれはつまり、信用ならないから教えてくれないってことだろ? 自分で考えておきながら日向は寂しくなって――ホームシックも相俟って――鼻を啜る。 目元も拭こうと眼鏡を一度とり、ゴシゴシしているうちに祖母が戻って来た。新たに追加された2つのミカンを腹におさめてから、日向は祖母に外に出る旨を告げた。 「明日遊べないなら、今日遊んでくるよ」 「あらそう?」 「うん。きっと広場行ったら、誰かしら居んだろ?」 日向はにっと笑う。 聞き分けの良い子を演じようとして表情を作ったつもりだったが、久方ぶりの田舎での友達に会えることが嬉しくて心が躍っていたので演技になっていなかった。明日も遊ぶつもりで、今日も遊ぶ。ただただ遊びたい盛りだった。 どうせなら、そうだ、上集落まで行ってやるか。 楽しいことをし尽してやろうと日向は計画を立てる。もし言い付けを破って帰って来て祖母に怒られても、謝ったら許してもらえる……それだけ祖母は優しいのだから。日向はそう甘えていた。 その甘さが、足元を掬うとも知らず。 「はあ? お前それ、マジで言ってんのか日向」 車の陰に隠れて眼鏡と目の間に入った雪を落としていた日向。雪合戦の玉が綺麗な弧を描いて滑稽にも眼鏡の隙間に落下した。その原因を作った笑い上戸の男は、日向の話を聞いてはすぐに爆笑を止めて、ギョッとした。 そして、敵陣地から帰ってきた他の一つ年上の少年が、顔を顰めて先ほどの言葉を漏らす。 潜めた声がまた緊張感を煽る。 「え、なにか不味いんですか?」 自然と同じように声を潜める日向。 「不味いってか―――いやまあ、不味いだろ」 「あ~たしか明日、16日ッスよね。そりゃマズイっスよ日向さん」 「高尾まで言うのか。は~なにがそんなに駄目なんスかねぇ」 半ばキレ気味に苛立った日向は、目元を服の袖でぐいっと拭いながら声の後尾を強くして言う。あからさまに『怒ってます』という彼に、顔を顰めていた笠松と苦笑いが耐えない高尾が顔を見合わせてから、言おうか言わまいかを目で話し合う。 それに気づいた日向はまたイラッときた。しかし次の瞬間。 「っしょ~~い」 ずぼっ。 突然眼鏡に雪玉が再来。すぐに視界が真っ白になり日向は身体を固める。 目を丸くして三者が唖然としていると、抜けた声が降ってくる。 「そりゃ駄目だろ~な」 そう緩い声が響くともなく届き、次には日向の濡れた黒髪をぽんぽんとして雪を掃われた。日向が振り返ったその先には、マフラーをぐるぐる巻きにして完全に顔色が悪い春日が、くしゃみをしながら「さみ~」と漏らしていた。 またしても否定された日向の台詞、それに付け足して眼鏡を濡らされた。 沸々とした怒りがピークに達そうとし、声を荒げようとしたが、すぐにそれを遮られる。 日向より先に春日が話し始めたのだ。 「明日は何の日だ~?」 「1月16日ですけどそれがなにか」 「だから駄目なんだよ」 「はあ?」 思わず日向が目くじらを立てて反論する。年上に礼儀正しい少年にしては珍しい反応。それだけ怒っていたということだ。別段気にした風もない春日――後輩にもっと無礼な奴がいるせいだ――は鼻を啜った。 寒さにカタカタと震えはじめた春日が何も言わなくなると、今度はだんまりを続けていた笠松が説明しはじめる。 「言い伝えなんだよ。この地方の、な」 「いーつたえ?」 オウム返しをする日向に、笠松は意を決したように続ける。 「1月16日は山に入ってはいけない日。なぜなら神様が降りてくるからだ」 「はあぁぁぁぁ!? そんなわけ、」 「山に下りてきた神様は木の数を数える、だからなんてゆーか、人間は入っちゃいけないらしいっすよ。木と間違えて数えられたら帰ってこれなくなるから」 けらけら笑う姿がデフォルメの高尾が思わず真顔になるほどマジな話らしい。事実ここにいる誰もその話に笑わないし、なにより目が真剣だった。 その異様な光景に、たったひとり日向だけは呆れかえっていた。 なんだそれ。 そんな馬鹿げた伝承を信じてここまで真顔になるのか? 日向はあほらしく仕方なかった。 「へーそうかそうか」 右手をひらひらとして、そりゃ大変だな~お前たちも、と高尾の肩を叩いて半笑いで慰める。いや本当に大変だとは思っていた。だってこんな馬鹿な言い伝え信じて、少なくとも一年で一度は行動を制限されてるんだろ? ヘンテコな奴らだ。ここに住んでる人は、みんなみーんな。 日向はまったくその話を信じてはいなかった。 「―――おい日向。お前信じてないだろ」 笠松がふと低い声で、肩をすくめる日向をけん制する。 「別に、んなことないですよ。……でも実際、笠松サン達は、そんな人みたことあるんですか?」 「いや……つーか誰も外で歩かねえし、居るはずねえだろ」 「ならなんでそんな迷信、信じてるんですか。おかしいですよ」 日向が核心をついてそう尋問すると誰も何も答えれない。ますます怪しい、なんで根拠もないのにこの集落の人たちは――。 そこまで考えて日向は馬鹿馬鹿しくなり怒りを収めて、足元の雪を触り始める。指がかじかむほど冷たいそれは圧力によって固くなっていく。ある程度の大きさに固めて、新しい雪玉を作り日向は、自分で振ったのだから自分が場の雰囲気を変えようとする。 「にしてもずっとその迷信、信じてるんですか?」 もはや何を言っても人の心情は変わらないだろうと諦めた日向は、逆に信じているせいで大変ではないか、と問いかけることにした。 すると笠松は頭を振り、否定する。 「俺は転校生だ、小学に上がる前に来たからかれこれ五年か」 「俺もっすよ。二年前だから、幼稚園の年長さん」 同意するように残りの二人も笠松の台詞に頷く。どうやらそれほど信じている歴は長くないらしい。しかしそれにしてもおかしい、ならばなんで、そんな迷信を信じる? 生まれも育ちも、この集落じゃないのに?  まさかここで暮らしているとその考えに感化されるのだろうか? 日向は思い浮かんだその考えに、ゾッとした。そんなまさか、思考が浸食されるとか――。 俄かに信じがたい世迷い事だが、実際目の前に信じている人間が複数いる。しかも迷信を口にする老人世代じゃなくて子ども?それも同年代の子どもが? 「俺には関係ぇねえし」 日向は誰かに言い訳するように、思わずそう小さく零した。 言葉とともに手元の雪玉をぎゅーっと握る。刺すような痛みが指の隙間から神経を刺激して、とっても痛い。けどそうしないと決意が鈍りそうだった。 一度決めたことは絶対にやりきる。それが男ってもんだ。 戦国武将好きの日向は日頃からそう心の臓に誓っていた。だから、こんなところで挫ける訳にはいかない。 グッともう一度。日向は自分に気合を込める。 「雪合戦、第2ラウンドしましょうよ!」 ふと静まり返っていた三人に明るい声が促し始める。三人が顔を上げると高尾が、ニッと笑っていた。 その声に目を瞬かせながら日向がポカーンとしていると、高尾が待ったなし! と言わんばかりに作り終えた雪玉を至近距離から日向にぶつける。 ぼふんっ。 綺麗に眉間にぶつかり砕ける。 「ぶっは!!?」 引き攣った声を出して日向が首を振り雪を振り払う。なにをすんだよ、と声を荒げたところで高尾は腹を抱えて笑ったまんまだった。その心底楽しそうな姿に、腹を立てていた日向は思わず震えていた右拳を振り上げれなくなった。 さすがムードメーカーだな。 日向は呆れかえりながら内心感心する。それでも頭では、明日ぜったいにコイツらの家に訪問して、驚かしてやる――と計画を練っていた。 雪がパラパラとまた降り始めてきた。 日向の祖母の家がある集落は中集落といって、山に周囲を囲まれている所謂、盆地だった。 周りの山々はそれほど起伏も激しくなく、初めて外部から歩いて入ってくる人も一時間もあれば民家にたどり着ける程度だった。 そんな中集落は人口のわりに子どもが居らず、超高齢化集落だった。そのせいで日向は祖母の家に遊びに来ると、誰かと遊ぶ時には山を越えてとなりの上集落か小山集落に行っては友達の家や広場に行くようになっていた。 祖母が日向に、 「外に出ずに」 といったのはつまり山に入るな、と言いたかったのだろう。 直接的に山を越えるなというと子どもは反抗したくなるので、あえて回りくどく、外に出るなと言ったのだろう。だがしかしそれがかえって、日向の気持ちに火をつけたのだから、どう説得してもきっと聞かなかっただろう。 雨漏れによって大きな染みが四つほどできた天井をぼんやり見上げていた日向は、上体をがばっと上げて時計に目をやる。 そこで日向ははたと気付く、眼鏡をしていないから見えない。 しょうがなく布団の頭元に手を伸ばし眼鏡を引き寄せて付け、時刻を確認する。 「よっし!」 まだ朝食といえるギリギリの時間。昼食にしては早すぎるから大丈夫だろう。 9時50分を示した時計を戻してから、日向は気色悪い音をたてる廊下を走って階段を駆け下り、リビングに飛び込む。 「おはよう!」 「あらま~元気ねぇ。転ぶわよ順ちゃん、おはようございます」 ふふ、と控えめに笑う祖母にニッと笑ってからそそくさと炬燵に潜りこむ。やはり冬は炬燵だな~炬燵があるばーちゃん家は大好きだ、いや無くても好きだけど。この寒さがなければもっと好きになれそうなんだけどな。 ―――あと、迷信と。 誰に言うわけでもなく日向は口の中で呟く。 案の定聞こえていなかった祖母は、台所から大きな皿を二枚持ってきて日向の目の前に置く。片方の皿にはきな粉餅が、もう片方の皿にはあんころ餅と海苔が巻かれた餅が。それぞれ結構の量が置いてあった。 「どうしたのコレ?」 「昨日順ちゃんがいない間に、杵つき屋さんに貰って来たのよ。順ちゃん餅好きでしょ?」 「うん、まあ」 確かに日向は餅が好きだ。特に甘いきな粉餅が、杵つき屋さんのあっさりとしつつも甘みのあるあんこの入った、きな粉餅が。……しかしタイミングが悪かった。 このあと数時間後に悪さをしようという子どもに、そんな優しさをみせられると日向じゃなくても誰しもが、たじろぐだろう。現に日向は段々と申し訳なくなってきて、 ―――どうしよう。 と昨日までの勢いが失速してきていた。 「たくさん食べて頂戴ねぇ」 「う、うん。いっぱいもらうな」 嬉しそうにホイホイと取り皿に乗せる祖母に、ついつい貰ってしまう日向は本格的に息苦しくなる。もう止めてしまおうか、本当に今日ばーちゃんの言う通りに料理でも一緒に作って、編み物をして―――そこまで考えたときだった。 背筋がピンっとなにか入ったようになり、思考が中断させられる刺激が、身体に走った。 「っぁ?」 驚いた日向が咄嗟に皿を持っていた左手を空けて、背中に手を回す。だがそこには何もない。 不思議に思いつつも目の前の祖母が、 「大丈夫? 虫でもいたの?」 と不安そうに尋ねてくるので誤魔化すためにも、 「へーき! 詰まりそうになっただけだから」 と笑ってみせた。 腹八分どころか何ももう入らないぐらいに、日向は餅をたらふく食った。 時刻はもう10時33分だ。そろそろじゃないかと日向は炬燵の中で寝転がった身体をあげる。 すると丁度、外から放送が流れる。 『―鰈やマグロの切り身、蟹の足がございます。どうぞ今晩の鍋のおかずに一つ。いかがでしょうか~』 スピーカーの爆音と時々音をはずした金属音。 魚を並べるのは当たり前な魚屋さんの周り売り車がやって来た。毎週土曜日のこの時間は魚屋さんが来るのだと祖母が言っていたのを日向はしっかり、覚えていた。 日向は息を吸い込み、やや大きめの声で家の奥に掃除道具を取りに行っていた祖母を呼ぶ。 「ばーちゃん! 魚屋さん来たみたいだけど~!!」 「あらまあそう? お財布どこかしらぁ」 慌てた風もなくスリッパを鳴らしながらリビングに戻って来て棚から財布を取り出して、 「ありがとう順ちゃん。寒いから今夜は鍋にしましょうか、蟹を買ってきて……あとは」 「わかったわかったから、早く行かないと通り過ぎちまうぞ!?」 「そうね~行ってくるわね」 そう言ってからリビングから外に続くドアのかぎを開け、そこに置いていたつっかけに履き替えた。 ドアを緩やかに閉めた音が聞こえてから日向は即座に走り、2階へと駆け上がった。薄暗い部屋のところどころに、鼠に齧られた痕がある。ほぼ走る形でその部屋に駆け込んで日向は元から用意していた私物のリュックサックを掴む。 昨晩のうちに必要なものを冷蔵庫から拝借していたのだ。中にはポカリとカイロ(未開封)と鈴と、あとは先程食べて余った餅が2つ。鈴がある理由は主に熊避けだ。ばーちゃんがよく夏場に山を越えるときに持たせてくれるやつ。いま役に立つかは疑問だが無いよかマシだ。 「うっし、行くか」 日向は勢いよくリュックサックを背中に背負ってから、お気に入りの戦隊モノの靴下を穿く。ちょっと自分が強くなった気がした。 来た道を風のように戻っていく。でも足音は立てないように、そーっとだ。そーっと。 いくら魚を選ぶのに時間がかかるとはいっても、良い魚がいなければ祖母はすぐに戻ってくる可能性があるのだから、ある程度急いで……。それでもバレないようにこっそりと、玄関を出た。 祖母が出たリビングの出入り口とは正反対にある、正式な玄関のドアをゆっくりと開けて、日向は頭を出して左右をしっかりと確認して。大丈夫だと分かった瞬間に走り出した。足元の大きな砂利が音をたてて煩い。それでも一度外に出てしまったからには目的を達成せざるを得なくなった。 日向は庭にある椿の隙間を突っ切って、その先にある段差を飛び下りる。 ガサンっ。秋ならば柿がなっているその辺りには情け程度の落ち葉があってそのおかげで日向は怪我をせずに済む。想定済みのクッションだ。日向は昨日の帰りに確かめていた。 約2メートルの崖を飛び下りたことで自信がますますついた日向はそのまま右手にある坂道を駆け下りて古びた民家を横切る。民家とは名ばかりでもう廃墟であることも知っているので、なんにも恐れる物はない。 なぜこんなにやる気に満ち溢れているのか―――正直な話、日向もよく分かっていなかった。先ほどまであんなにぐらついていた気持ちが、まるで萎みかけていた風船に勢いよく息が吹き込まれたかのようになっている。しかもそれがどんどん楽しくなって、絶対に成功してみんなの目を覚ましてやるんだ! という変な使命感まで感じ始めていた。 どれぐらい走っただろうか。 すくなくとも一刻は過ぎたはずだ。 あんなにお腹いっぱいだったのにお腹がもう「ぎゅる~ぎゅるる~」と鳴いている。 ぜったいに今頃、ばーちゃん、俺がいないことに気付いて大慌てしてるだろーな。 ふと浮かんだ祖母の顔に、見たこともない心配そうな表情を張り付けた。それが妙にしっくりときて日向は我ながらした上手い想像に、むしろ「想像して失敗した」と嘆く。なんとなく家に帰りたくなったからだ。帰って謝って、 「元気だから! ほら、ぴんぴんしてるだろ!」 と笑ってやりたかった。 だがどうしたことか。そうしたくてもできない理由が今まさにここに、あった。 竹林を抜けて、コンクリートで固められた道路が無くなってからどれぐらいか。 右をみても木。左をみても木。 茶色一色だった。しかも今は真冬だから葉っぱがついてないために木の見分けがまったくできない。 そうつまり日向は完全なる迷子になっていた。 「マジかよ」見上げた木の枝の先をぼんやり見つめながら、日向は思わずそうぼやく。 道なき道を行く。というよりは等間隔に生えている木々を避けて避けて歩いている。等間隔ということはそれを人間が植えたのだろう、ということは大人からすればわかることだが、9歳児の日向がわかるはずもなく。ただただ『迷子になった』という現実が彼の心を蝕む。そしてギリギリと痛めつけて苦しめていた。 「……どうしよ」 寒さからではない震えが日向に起こる。力を抜けばポロリと涙が零れそうになり、どうにかしっかりしようとその小さな手で服の袖をぎゅうっと掴む。 泣いてる場合じゃない。 そう自分を叱咤して眼鏡をかけ直す。触れた眼鏡のフレームが妙に冷たく感じた。 日向が顔を上げても木々はそっぽを向いたまま、ただそこに生えているだけだ。太陽すら背の高い木に阻まれ顔が拝めない。冬の寒さが、冷たい風にくわえ太陽の恵みをなくしたことによって、より一層猛威を振るう。 悴む指先を温めながらどうにか進まないと……でもどっちから来たんだっけ? そう日向が頭を悩ませている時だ。不意に空っ風がビュウウン!! と物凄い勢いで通り過ぎる。「うお!?」 驚いた日向が腰を抜かす。いつもなら耐えられる暴風に、竦んだ膝は耐えられなかったのだ。 尻もちをドーンとついた日向が、その勢いのまま後ろに転げそうになりリュックサックを背負った背中を丸めると、突然。 「だいじょーぶか」 ごく自然に声が聞こえる。 頭の上から。 「ぇ」 日向は驚きすぐさま顔を上げる。そのとき日向は何も考えていなかった、もしかしたら目の前にいるのは助けにきてくれた大人では? とも、まさか本当に神様か? とも。 ただ反射的に何も考えずに。 見ると数メートル先にナニカがいた、そう、ナニカ。 「―――まっしろ」 一言で言えば……いやなんことで言おうと、その言葉に尽きる。 如何せん真っ白なのだ。 頭の先から足の先まで、着ている着流しが白いのはまたわかる……だが、いったい何だこれは。なんで顔まで白い? というかこれは、お面というよりかは顔と呼んだ方が正しい気が、そう、本物の顔に。 肌であるはずの箇所も白くまるで発光しているように―――まっしろだ。 そこまで確認して日向は声にならない悲鳴を上げる。喉の奥がガコガコと呼吸に失敗した音をたて、顎が上がらずに口が閉まらない。全身の神経がおかしくなったように軋みはじめ、拒絶を引き起こす。 「ぁ……ぁぁ、……っ、ぁ…は、」 笑っているのか息をしようとしているのか、日向は奇妙な声しか出ない。 完全に恐怖に身体を支配されていた。指ひとつ満足に動かない。 そんな彼をみて――というと語弊がある、目がないからだ――相手は告げる。 「イケナイ子だなぁ~こんな日に山に入るなんて」 場に似合わないのんびりとした低音。 日向はその声を聴いて純粋に、口がないのにどこから話しているのだろうか……と疑問には思うがそんな雑談をできる余裕はない。なんせ相手は言ったのだ。 “こんな日に”と。 どうやら相手は集落の言い伝えを知っているらしい。ならばなぜ、堅実に守っている住民と同じように家におらずにここにこうして居るのか―――当たり前だ。そう相手は、つまり。 「……っ、…か、み……さま…?」 ちゃんと発音できずに噛んでしまう。 しかしそれも、きちんと伝わったらしく相手は真っ白を揺らす。左右に何度か揺れるのを日向がビクつきながら見ていると、どうも揺れているのではないのだと気付く。近寄ってきているのだ。 そのことに気付いた瞬間。日向は無意識にも太腿の内側に力をキュッと入れて、股を閉じる。そうしておかないと失禁しそうだったからだ。 正常に何も認知してくれない五感に檄を飛ばしても、『にげろ』としか返ってこずに、日向は半ば放心状態でいるしかない。 それでもまっしろい相手は止まらず、ついには日向の目の前にキラキラとした真っ白い物が広がる。本来であれば綺麗なはずのそれに……異常なまでに恐怖を抱くのは何故だろうか。悪いことをしているという自覚があるからか? それとも―――本当にヤバい奴だからか? 日向が地面についていた両手を股に挟んで身体を縮こまられていると、相手がまた声をかける。 「怖いか」 ギクリとなる。 どうしようどうしよう……頷いてしまおうか、いやでも、機嫌を損ねてしまったら……。 日向が迷っていると、返答より先につぎの質問が来る。 「俺が見えるか」 それはどういうことだろうか。 日向はこちらの質問の方が困って少しの間、唸っていたが顔を顰めてから小さく首を傾げた。結局どの程度が『見えた』に入り、また『見えなかった』に入るのかわからなかったからだ。 神様は怒るだろうか―――日向が様子を窺うように微動だにせず返答を待っていると、真っ白な筋が不意に自分の身体に伸びる。自分の、からだの、くちびるに……え? 「ぇ、」 気づけば白いモノが唇を割ってはいっているではないか。 思考回路が停止した日向がもう一度「ぇ、っ……」と漏らすと、たいして感覚もなかった口内に突然じんわりと温かいものが広がる。人の体温よりもはるかに温かいソレは、むしろ熱いといっても過言ではなかった。 驚いた日向はやっと我に返り、股に挟んでいた両手をあげて白い筋を振り払おうと躍起になる。 「ぃや、いやっ…イヤ、!!」 わたわたと指にまとわりつく筋を引き延ばそうとするが切っても切っても、まったく切れない。むしろ身体じゅうにまとわりつくように切った先からトローンと太腿に落ちた筋が、身体をつたっていく。 「ひぃ……ひぃい、いいイイ!!」 驚愕するほど悍ましい光景に日向の喉が変なおとを出す。パニック状態に陥った日向が、目の前の相手よりも口と手元と身体に気をとられていると、不意に背中に違和感を感じる。固い。 ―――明らかになにか、自分の身体の一部が。背中が……かたい? 「え、え、」 さっきとは違った驚きが身体に走る。咄嗟にどうにかリュックサックを下ろした日向が自分の背中に手を回し指を触れさせると、あからさまに骨とは違う硬いシコリができている。ペタペタと何度触っても消えないシコリが、変にいったりきたりと背中の中央から下へ移動し、今度はまた上へとのぼっていく。 「な、ん……ぇ、え?」 意味がわからずに白い筋の糸も放って背中を確かめる日向。あからさまに顔色の悪い彼に、近く無言だった相手が口を開く。 「悪いが山に入った者は、木にしないとダメなんだ」 「―――」 日向の脳裏に咄嗟に、笠松たちの台詞が流れる。 “1月16日は山に入ってはいけない日。なぜなら神様が降りてくるからだ” “人間は入っちゃいけないらしいっすよ。木と間違えて数えられたら帰ってこれなくなるから” 言い伝え、なんかじゃなかったのか。 後悔しても遅い。 「見せしめ、ってのもあるんだがな。木を数える時に人間がいると困るんだ。だからこうして入って来た奴は木にするって決めててな」 「……ひっ、く……ぅ」 「わるいな」 まだ成長期に入ってない小柄な日向が、小さな体を丸めて一生懸命に固くなった部分を両手で押さえて、泣いていた。静かに声を押し殺して。 白くなるまで唇を噛んで嗚咽を漏らさないように。 「大丈夫か?」 心配そうに尋ねられたが日向は声を押さえるのに必死で返答できない。 日向は声を出すことをどこまでも良しとしない。なぜか? それは明白だ。 悪いのは自分だとわかっていたからだ。 言い伝えを迷信だといって馬鹿にして軽んじたのは自分だし、せっかくの忠告を無視したのも自分、ならば今更泣いて許しを請うなんてそんなこと、浅ましすぎてみっともなくて、日向には到底できなかった。 これだけ自分の非が分かっているとむしろ、木になるのも仕方ないと感じた。 思い返せば短い生涯だったな~と思わんでもない日向。しかしある一種の潔さのある子どもだ、諦めも含んでいた。 しかしその姿をみて慌てたのは神様の方だ。 まさかこんな子どもが、そんな決意と覚悟を決めるとは―――想定外の出来事に頭を悩ませる。ただ普通に泣きわめいてくれれば対応が簡単だったものを……こんな、健気にも耐えられると。 ―――変な情が、湧くよなぁ。 誰に言うわけでもなしに神様は、頭付近をぽりぽりと掻く。 「……助かりたいか?」 ふと零れた言葉だった。 予想外の言葉に日向は耳を疑う。そして罠ではないかと疑い始めた。ここで頷けばきっと『浅ましい人間め……血筋ごと滅ぼしてやろう』などと大事になるのでは? と最悪の事態が脳裏をよぎる。 頷いてたまるか! 日向は変に反抗心が湧き、首を横に振る。すると神様は、そうか……と図れない声色で返す。 「じゃあもう、助からなくてもいいんだな」 「……っ、(こくんこくん)」 否定したい気持ちを押し殺してどうにか頷く。日向が凍てつく指でシコリを押さえていると突然ムクムクとそれが大きくなる。 「へ……、な、なん…っ?」 驚いて振り返る日向。するといきなり後頭部になにか添えられる。身動きが取れなくなった。 ギクリと固まる日向だがなんとなく正体はわかる。先ほど口内に入って来たのと同じ熱量だからだ。 それより背中だ。 シコリがなんと2箇所に増えているではないか。 「ひ、…は、ひ……ぃぃ」 恐怖に心が壊されそうになった日向が思わずといったように悲鳴を漏らす。太腿に力を入れて落ち着こうとするが、かえって呼吸が荒くなるだけでちっとも効果はない。 刻一刻と木に近づいていく身体が、決意を決めたはずなのにっ! と思う気持ちとは裏腹にガタガタと大きく震える。 触っていれば一層大きく固くなって、背中の表面までゴツゴツとしてくる。もはや手で触っているのも怖くなってきた。 すると神様が最後だ、というように言った。 「本当に助かりたくないか」 日向の耳に届いたそれは、まるで悪魔のささやきだった。 相手は神様だというのに変な話だが。しかしそう言ってもおかしくないほど、神様のその言葉のタイミングは良すぎた。 藁にも縋りたい小学生の幼い自我に、まるでひび割れを縫うようにして優しく潜り込んできた。 だからか。 「―――さ、ぃ」 「ん?」 「たす、け…たす、けてくだ、さい!」 情けなくて情けなくて、そう言ったっきり日向は泣き出してしまい俯いたまま動けなくなってしまう。 本当に情けない! 浅ましい!! なんて汚いのだろう、こんなの自分の大好きな戦国武将なら絶対にしない!! むしろ切り捨てられる悪役の行いだ!!! 自己嫌悪に陥った日向は声を出さずに、泣く。唸るように身体を震わせて泣く。 助けてほしいがためにみすぼらしくも相手に縋りつくなんて、心が死んだも同然だった。 俺の言葉を皮切りに神様は離れていった。後頭部を温めていたものも無くなり、頬をいつの間にか濡らしていた涙が酷く冷たかった。 そっと背中から両手をゆっくりと離すと背後にあった違和感がすーっと馴染むようになる。 気になってもう一度、確かめるために右手を伸ばせばそこにはいつも通り、スルンとした皮膚がある。 心拍数が下がっていく。俺はホッとして胸をなで下ろそうとするが、如何せん目の前の神様が気にかかって落ち着かない。 まるでさっきのやり取りで自分は穢れてしまったようだ―――女女しくも助けを乞い、泣いたなんて。……恥ずかしい、消えてしまいたいぐらいだ。とはいっても本当にそうなったら嫌だから言わない。 「……。」 お礼を言うべきか否か。 本当のところ礼を言うのは当たり前なんだろうけど、なんだろう、気が進まない。この神様にはなぜかそう思ってしまう。 それでもどうにか、頭を下げて口を開く。 枯葉の上に正座をしてちゃんと体勢を整える。引き寄せた自分のリュックサックを膝の上に乗せて、抱きついて心を落ち着かせる。 「―――すみません、でした」 お礼は言えなかった。だからせめて謝ることにした。 でもどんなに待っても、返事がない。どうかしたのか? 俺は怪しんで顔を上げると、いつのまにか近くにいたまっしろの体に驚く。 「うへっ、」 ひっくり返りそうになった。そのとき、地面についてバランスを取ろうとしていた方と逆さの腕を不意に前方に引かれる。 「ぶっ、」 「なにしてるんだ?」 神様が不思議そうに訊ねる。あんたに驚いたんだよ、とは言えない。 俺は目の前にあったまっしろな光に顔がぶつかり思わず鳥肌が立つ。……あれ? 普通に弾力性がある? まるで本物の人間の腹みたいだ。 キョトンとするしかない俺に、もう一度神様はだいじょうぶか? と訊ねる。 俺は思い切って膝の上のリュックサックを隣に下ろしてから、まっしろの正体にがばっと抱きつく。神様は「うお?」と抜けた声を出すが―――なるほど思ったとおりだ。おおきくてあったかい。 「にんげんみたいだ」 俺がそう溢すと神様はちょっとのあいだ無言で、それから小さく笑い声を零した。 「そんなこというの、日向ぐらいだぞ」 嬉しそうな神様の声に胸の奥が不思議と満たされていくのを感じる。それと同時に疑問がわく。なんで俺の名前を知っているんだ、神様だからか? そう訊ねると、 「神様だからな。人間たちを見守ってるんだ、知らないと困るだろ?」 と返される。やっぱりそうなんだな。 抱きつきながら段々と落ち着いてきた俺は、落ち着くにつれ徐々に恥ずかしさが込み上げてきて『なんでこんな歳にもなって抱きつかれて、安心するんだ!?』と幼稚な自分を叱咤した。 いざ、腕を離そうとした時だ。 突然隣にあったリュックサックが持ち上げられた。どうやら神様の仕業らしい、太くて白い筋がリュックサックの紐を掴んでいる。 どうしたのだろうか……なにか不都合でもあったのだろうか? それとも抱きついたから怒ったのか? でもさっきまでは嬉しそうな声だったし―――そこまで考えて「ひゅーが」と名前を呼ばれる。びっくりして思考が中断させられた。 「食べ物持ってないか?」 「腹、へったのか? ……ヘッタンデスカ?」 「ははは。敬語じゃなくていいぞ」 軽く笑ってからまっしろな姿は何も言わなくなる。つまり肯定したってことか。 俺は腕を離してから神様の掴んでいたリュックサックを軽く引っ張り、受け取って、口の部分を開く。暗いなかを覗いてもしょうがないから地面に物を置いていくことにする。 ポカリだろ、カイロだろ使えばよかった寒いな……えっと、あっ餅があった。 ナイロン袋にいれてあった朝食のそれを取り出して、俺は括っていた袋の口を解いて、神様の目の前に突き出した。 「俺のごはんでよかったら、食べろよ」 「おっ、餅か! いいな~ありがたくもらうな」 相変わらず白い筋なそれが伸びてうねって、袋のなかに入っていく。ふと俺は好奇心からその袋の口を両手でグッと閉める。 「……なにしてるんだ、日向?」意味がわからないといった声がする。 「いや、その、掴めるかなって」 さっきはボトボトと身体に落ちてきたものが、袋の中だと溜まるのか? と疑問に思ったからだ。結果はどうにも白い筋は白い筋のままだったが。 反応の分からない神様に気まずくなって、愛想笑いで、えへへと笑っておく。すると神様の反対側からら同じ白い筋が出てきて、頬を撫ぜられた。ピトッという効果音がつきそうだ。感覚は相変わらずないが、ただ温かい。 そのとき小さな声で、 「勘弁してくれよひゅーが、煽るなよ」 と告げられたことに俺は、気付けなかった。 頬を摩擦熱が起こりそうなほど撫でられたまま神様は餅を食べようと、俺に袋の口を開けてほしいと頼む。これ以上邪魔する気は鼻から無かったので、言われたとおり開く。 「ほい」 両手で丁寧に口を全開してやる。 「さんきゅーな。ん、うまいな」 鼻を鳴らして喜ぶ神様。本当に人間、しかも子どもみたいだな―――俺は小さく笑う。 笑う際に閉じた目を開いて……俺は唖然とした。 目の前に人間が座っていたからだ。 「ぇ、……だ、だれだ」 俺が焦って上擦った声を出すと目の前の奴は、にかっと笑ってから太い眉を下ろして言った。 「やっと見えたな」 どうやらこのお人好しそうな太い眉の男が、神様らしい。 身長はゆうに190あるだろう大柄の男が、日向にたいしてもう一つの餅を取り出し勧める。 朝食べたんだけどな~と思う日向だったがひとりで食べても楽しくないだろうと気付いて、ありがたく受け取ることにする。いやまあ、本当は俺のなんだけど。 がぷっ、噛みついて引っ張ると唇にきな粉がたくさん引っ付く。 咀嚼して飲み込むまで二人は何も話さずにただただ食べることに夢中になっていた。最後の一口をくちに放り込んでから日向は指を舐めて綺麗にしてゆく。 ひと通りお腹が満たされてホッとしたとき、ふと隣から指が伸びてきた。 ちゃんとした人型のそれでも太い指が日向の口の端をかすめ、 「きな粉ついてる」 と暢気に笑っていた。 日向は大人ぶって上品に食べたつもりだったから余計に恥ずかしくなり口をわななかせるが、それでも文句を言う方が子どもだと思い、「あーがと」と頑張って小さくお礼を言った。 頬が寒さではないところで真っ赤になっていた日向が俯いていると、神様が思い出したように声をあげた。 「言い忘れてたな日向、帰してあげるって約束したがあれは諦めろ」 「はっ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!? えっちょっ、どういうことだよ!?」 突然の告白に度肝を抜かれた日向が怒鳴る。意味がわからない、どういうことだ、これじゃ話が違うじゃないか!? 焦りと怒りと困惑が混ざって叫ぶしかできない日向。しかし彼の隣の神様は困った様子もなく、ただ先ほどと変わらない読めない表情で口角をあげて笑っていた。 ぎくり。 日向はその表情に身体が固まる。 不思議と神様という存在は優しそうでしゃべりやすそうだが、どこか踏み込めない雰囲気を身に纏っている。それはたとえるならば腹が黒いといわれるオーラだった。 固まった日向を無視して神様は「焦るなって、な?」と笑う。 「別に家に帰ることを諦めろって、言ってるんじゃないんだ」 「え、ああ。うん?」 意味がわからないが、日向は一応、相打ちを打つ。 「いま住んでる都会に、帰るのを諦めろ」 「はあ!? いやいやいや、え、どういうことだ!!?」 「つまり転校すればいいだろ? 日向には祖母がいるんだし」 「そーいうことじゃねえって! だからなんで、」 「一度決まりを破った人間の体質は酷く軟弱になるんだ。人間には見えないからわからないかもしれないが、そこらじゅうに下級の霊は存在する。この地域一体なら俺の力でどうにか守れるが、他に行かれたら守れない」 “決まりを破った” その台詞に日向は肩をビクつかせる。 そうだ、破ったのは自分自身だ。 この神様は俺のことを罰するどころかむしろ、守ろうとしてくれている。なぜかはわからないが助けてくれようとしている。 それを……それをこちらが文句をつけて腹を立てるのは、お門違いってやつじゃないか? 日向は反論できずにだんまりになってしまった。そして長い間沈黙を続けてから、やっとのことで返事を出した。 「わかった―――転校する」 さてさて、このとき 笑っていたのは誰だろうか? 同時刻のことだった。 落ち葉を運んでいた少年がそれを焼却炉にくべたとき、空っ風が吹き抜けた。 長い横髪が顔にかかって邪魔になる。それを耳にかけてから前髪をピンでとめてやっと視界が良好になった。 冷たい風に眉を寄せて「さっみ~な」と呟いていると、遠方から声をかけられる。 「おーいそれだけ終わったら、中入っていいって。じいちゃんが風呂貸してくれるってさ」 「マジっすか笠松さん。ありがたく頂戴します!」 よっしゃ、と喜ぶ高尾が焼却炉前の煉瓦を飛び下りた。 周囲がすべて山に囲まれている中集落とは違いこの上集落には山が少ないため、落ち葉の処理を雪が降っていない間にしてこいと命を課されたふたり。その使命がやっと終わったようだった。 鼻を啜りながら高尾が、迎えに来てくれた笠松に近寄りながらふと疑問をぶつける。 「にしても笠松さん」 「あ?」 「日向さん大丈夫っすかねぇ」 「……そうだな」 高尾が寒そうに肩をすくめながら訊ねると、笠松が訳ありげに眉を寄せる。 何かが詰まっているような困り顔。その理由を知っている高尾はあえて問い詰めない。 「家でじっとしてくれるといいんだけどな」 「日向さん、変なところで頑固ですからね~“真ちゃん”みたいにさ」 「んなところで発揮しなくていいのによー。……つか、その“真ちゃん”って奴と同種に見つかるのが問題なんだろうが」 「ま。見つかるときは見つかるっしょ」 そう軽く言ってのっけた高尾の顔は、どこか諦めを孕んでいた。 それが本当の諦めなのか順応なのか―――笠松には判断がつかないところだが、これだけはわかる。自分と同じ気持ちを抱いているのだろうな、と。 一体あれから何年経っただろうか。 ふとそれを久々に考えてしまい、笠松は小さいころ住んでいた海常という地方を脳裏に描く。そして何気なしに溢してしまった。 言ってはいけない台詞を。 「―――外に出てぇな」 「はあ? なに言ってんスか?」 たった一度、瞬きをした。その瞬間笠松の身体にナニか巻き付いた。 「か、はぁ……が、っ!!」 息が詰まる。ヒューヒューと弱くしか呼吸ができなくて、充分な酸素が肺に送られない。ぁ…あ……と声を笠松があげていると、となりを歩いていた高尾が一瞬焦ったような表情をし、 「どーしたんすか、え、え―――もしかしてアイツ!?」 と助け出すために両腕を伸ばそうとして、動きが止まる。 自分自身もナニかに纏わりつかれた。 「し、“真ちゃん”やめて!! いまそんな場合じゃねーんだって、ちょ、」 「貴様も今、帰りたいと願ったな」 高尾の背後からした声がある種の怒りを含んでいたことに焦った高尾が、言い訳をしようと下腹部に巻き付く長い“尾”を手で牽制しながら振り返ろうとして、失敗した。 上に羽織っていたコートの隙間から、腹に纏わりついていた“尾”が忍び込んでくる。 「ほんとーに止めろって!! 洒落になんねえから、マジで!!!」 「知ったものか」 短く切り捨てられた高尾はコートを押さえながら背後を見、そこにいた自分だけに見える神様の名前を叫ぶ。しかし悲しい事にも相手は人間ではない。だから相手に常識を求めても無駄だった。 そのことをここ数年でよく教え込まれた高尾は最後といわんばかりに声をあげる。 「家の中でして!! ……っ、こ、ここはヤだ!!!」 その言葉を待っていたとばかりに緑色の神様は口角をニヤッとあげた。 高尾の胸に付けられた赤い刻印が酷く反応しはじめる。 それを近くで感じ取った黄色の神様は自分が首を絞めている相手をみて、冷たい目を細めて話しかける。 「やっぱり幸男くんも室内がイイっすか?」 「ぁ、あ……ぁっ、は」 「ほらほら唾液が漏れてるっスよ~見せつけてるんすか? も~やらしいっすね!」 「くぅひ、は……ゃえ、て」 「ん?」 「ゃ、え……やめ、て……くれぇ、…ヒィっ、」 極限まで酸素が無くなった笠松が身体をびくびくとさせて上を見上げると、灰色の空をバックに綺麗に輝く黄色の神様が満足げに見つめていた。 唾液も鼻水も涙も、全部ぜんぶ出てしまってぐちゃぐちゃの笠松の蒼白い恐怖の顔をみて、神様はとっても嬉しそうに笑っていた。―――ただし、目は冷たいまんまだ。 鈍く光った目を持つ神様がやっと笠松の首から手を離す。しかしその間も身体に纏わりついた数本の“尻尾”はぎゅうぎゅうと笠松の胴体を抱きしめ、というよりは絡みついていた。それはまるで逃げないようにと囲っているようだった。 「は、ぁ……はあ、はぁぁ」 やっとのことで笠松は呼吸を再開する。ゆっくり、ゆっくりと肺に酸素を送り込んで。耳の後ろで警鐘を鳴らしていた心臓の音がちょっとずつ遅くなる。それでも表情は固いまま笠松は地面を睨みつける。 ―――なんで“出たい”なんて、思っちまったんだ。 もう何年も押し殺してきたことを、また馬鹿みたいに思い出して願うなんて……本当に馬鹿だ。 ふと笠松の膝が笑いはじめた。 無理な未来を望んだことが心底、心底、苦しかった。無理だと分かっているから余計に。 無言になった笠松の目が虚ろになってひとりでに涙がまた溢れてきたとき。 不意に、身体に纏わりついた“尻尾”が力を緩める。そして腕が伸びてきた。 今度は優しくやさしく。笠松の頭を抱く。 「大丈夫っすよ、幸男くん……ねえ。たくさん『役割』、果たしましょ?」 染み渡るほど甘い声で笠松の名前が呼ばれた。 そしてしゃがみ込んだ神様の首元へ、笠松の頭が押し付けられる。そのうえ頭を撫でられればもう、駄目だった。 もうなんでもいいや、と思ってしまった。 「あぁ―――」 黄色の神様もまた、自分の腕の中にいる寵愛する子どもの心が揺らぐのが手に取るようにわかり、心底嬉しそうにニッコリと笑うのだった。 子どもが寝静まる夜になった。 獣は活動をはじめ、路上を走っては山を駆け上がり集落を越える。野を越え山を越え……たどり着いた社の下でふと脚を止め、周囲に気を張ってから次の瞬間には人型になっていた。 そしてそのまま何事もなかったかのように階段を上り始めた。 ゆっくりと足を交互に出しながら、ふと何かを思い出したかのようにくつくつと喉を鳴らして笑い、上りきった時にはどうにか緩んだ表情を戻していた。 それでも下がった眉は直っていなかった。 「おい。幸せですって顔するな、気持ち悪ぃんだよ。ばぁか」 「嗚呼花宮か。そうか? やっぱりわかるか?」 「……チっ。朝から操っておいて何を恍けてんだよ、騙されるわけねえだろ」 「そうか~みんなにもバレてたかぁ」 そう言っては幸せを隠しきっていない顔をし、頬を掻く。今にも拳を食らわせようと苛々している花宮の目の前で笑う、木吉。 そんな彼に声がかかる。 「他はもう集まってるんで、早く来てください」 「おおっ黒子か。久しぶりだな~」 「はい、お久しぶりです。……それにしても今回は派手にしてくれましたね」 黒子と呼ばれた水色の光を纏う青年の容姿の彼は、無表情をそれでも顰めて木吉を注意する。しかし言われた本人はのほ~んとし、笑っていた。うれしそうに幸せそうに―――尋常でないほどの興奮を纏いながら。 「だってあそこまでしないと、日向、家から出なかっただろ?」 「日向さんとおっしゃるんですか彼。だからって背中に仕込むのは、神様としてやっていい範囲を超えてますよ」 強い口調で言う黒子。 花宮とすれ違うようにやって来た黒子は、今朝感じた木吉の力の乱用を、どうにか咎めようとする。 人間が家の中にいるとき、つまり家の神様に守られているときにまで他の神様が手出しをすることは、ある意味掟破りなことだった。 そんなことは十も承知のはずなのに、木吉は全く反省していない。むしろ満足そうに揺れている。 「おかげで日向がここにやってくるんだ、イイこと尽くしだろ? それに黒子たちには何も迷惑かけてない」 「―――やってくるんじゃなくて、縛り付けたんでしょう」 「なんのことだ?」 黒子が小さい声で唸ると、木吉はその笑って細めていた目を開いて、言葉にはしないが『黙れ』と言った。台詞とともに傾げられた首。目は瞳孔を開ききっていた。 思わず目を丸くした黒子。反論しようと用意していた台詞が口から出ない。 はじめてこの温厚な神様が怖いと思った……これが、山の神様か。自然現象と同じで、歯を向けられると一気に太刀打ちできない。そんな凄味があった。 無言になる黒子にむかって木吉はふっと笑いかける。いつも通りの穏やかな笑い方の方だ。 「なあに、別に俺だけじゃないさ。お前の方が詳しいだろ黒子?」 「……」 「キセキの奴らはみーんなこうしてきた。俺たち無冠だって、いずれ同じ歴史をたどる。それで人間みんなが幸せになれるんだから、イイことじゃないのか?」 「―――日向さんや笠松さんはどうなんですか」 笑う木吉に、生贄にされた本人たちの幸せはどうなるんだ、と強く非難する黒子。どうにも許せなかったからだ。 人間を幸せにするのが役目だと言う、キセキや無冠。しかしその割には自分が気に入った人間を閉じ込める性癖があった。 ―――寵愛 そういえば聞こえはいいかもしれないが、言ってしまえば囲ってしまうのだ。 愛しむものが逃げないように、逃がさないように、そして……にげようとおもわないように。 そんなものが本当に人間の幸せにつながるのか? 黒子は常々それが不思議だった。 真剣にとり合ってくれる気配のない木吉をじーっと見ていると、ふと第三者がやってくる。 「まだ貴様にはわからないか」 「……緑間くんですか」 目をやればそこには白い着流しで緑色の光をまとう男が眼鏡を押し上げて直していた。 無意識に黒子の眉間に皺が寄る。彼が来たせいで分が非常に悪くなった。しかしそれよりも問題があった。 緑間の身体から高尾の匂いがする。 「また今日も、彼にイれたんですか」 黒子が感情の読めない声を低くして訊ねた。 すると緑間はふっと笑い、眼鏡のブリッジを押し上げる。なんとなく返答を察する。 「高尾の方が欲していたのだからいいだろう、俺のせいにするな」 「よく言いますね。高尾くんに雨をイれないと日照りが起こる、と脅しているのはどこの誰ですか」 「本当の事だ」 「……君なら調節ぐらいできますよね? 雨を降らせる量、それに時期も」 「やる気の問題だ。人事を尽くさねば上手くいくまい―――高尾の中にイれれば間違いなど起こらないからな」 そう言ってはギラギラとした目を、背の関係上見下す形となって緑間は黒子へと向ける。光ったレンズで見にくいが確かに緑間の目は欲望を孕んでいる。 ―――気持ち悪い、きもち悪いっ! 嗚呼っ、可愛い子どもがまた犠牲に!! 黒子は嘆かわしい気持ちになり思わず眉を寄せる。鼻頭に皺が寄り、苦しそうに胸元を握りしめた。 そんな彼の様子には目もくれず緑間は、隣に立っていた木吉に話しかける。いつもは淡々と話す声色がどこか楽しげなことに、気付きたくもなかったのに黒子は気付いてしまった。 「木吉さん」 「ん? どうかしたか緑間」 「ちゃんと餅は食べさせましたか?」 「ああ勿論だ。杵つき屋で用意していたからな」 「なら良かったです、そうしないと囲えませんから」 緑間の満足そうな声に黒子はゾッとする。 なんてことだ、寵愛の仕方まで教えていたなんて! 昼頃の話―――日向がリュックサックに入れていたあれは実は、木吉が女性を操って杵つき屋まで買いに行かせた物だった。日向順平の祖母を、操らせて。 そしてそれを食べきれるはずもない日向が、リュックサックに非常食として入れることは、わかりきったことだった。そして腹を空かせたと主張する木吉に、心優しい日向が分け与えてくれることも。 神様と契約――寵愛のことを指す――するためには生命力の交換が必要で、ここでは食べ物で済ませておいた。古来から人間が神様にお供え物をするのはよくあること。しかしその逆は大きな意味を持つ行為だった。 木吉は一度日向から貰った食べ物を、改めて自分の物として日向に与え返したのだ。 そのせいで成立してしまった。『寵愛してもよい』という許しを出してしまったがゆえに。 もし仮にそれをしていなかったならばまだ救いようはあったのに、寵愛をしていない外部は手を出しようがなかった。自然事象は起こせようとも直接的に手を出せるのは、寵愛をしている神様のみ。 これからはきっと木吉が治める山に囲まれた集落でしか生きることを許されない。干渉を許された神様はそれぐらい、簡単にやってのっける。 現に緑間は三年前、キャンプで遊びに来ていた幼稚園児の高尾にたいし、 『貴様が言い伝えを信じなかったせいで俺の力は弱まり、この地域では日照りがつづき、やがて甚大な農作物被害が発生するだろうな』 と脅してはこの集落への移住を強制した。蛇神様の緑間のもとへ。 そしてそれから高尾が少しでも“帰りたいなぁ”と思うたび、身体に雨をイれて忘れさせてきた。 寒気がして黒子が己の腕を摩っていると、そこへ黄色の神様がふら~とやってくる。 彼にもまた人の匂いがついてた。 「木吉さ~ん、上手くいったんすか?」 「おお黄瀬。ばっちりだ!」 「そりゃ良かったっす! ちゃ~んと変なことを吹き込もうとした幸男くんには、灸をそえておきましたんで」 そう言ってからニッコリと笑った黄瀬は、月明かりに照らされて妙に色気があった。しかし黒子にはそれが緑間と同じ、狂気であるとよく知っていた。伊達にシックスマンをやっていないのだから。 その黄瀬の場合は奇妙な囲い方だった。 祖父母の家に泊まりに来ていた笠松は、ある夜。 プレゼントで貰ったばかりのバッシュが嬉しくてしょうがないために、言い伝えを破って履いてしまった。 ぶかぶかの靴は足に合わなかった。それは当然だ、なんせ祖父は渡す際に「それが合う歳になったらバスケの試合を見に行ってやろう」と言い、それに笠松は真剣に頷いたのだから。 そして隠れてバッシュを履いた笠松は、こっそりと履き心地を確かめようと夜にもかかわらず玄関を出た。田舎独特の大きい家がそれを可能にした、それは幸か不幸か。 興奮気味に嬉しそうに駆け出して、舗装されていない道路をすり足気味に走った。すっ転びそうになりながら隣の家を越え、駄菓子屋さんを越え、そしてそのうち立ち止まると困ったことに電燈がない道についてしまった。 いくら何度も来た祖父母の集落とは言え、灯りがないところで位置を把握できるほど馴染んではいなかった。 右をみても左をみても真っ暗闇。足が竦むほど暗い。なにも見えない。 そんなときだ。 がさっ。 となりの竹藪から何かが飛び出す音がした。 ビクついた笠松が音の方をどうにか見た。 すると当時の幼い笠松の背をはるかに超える大きな生物が、そこには居た。犬よりも大きくて熊よりも小さい。まるで狼のような大きさのソレ。 声も出ずに目を見開く笠松は反応できない。驚くことも怯えることも。 そんな姿をみて大きな生物―――化け狐は目を細めていったのだ。 『あっちゃ~見ちゃいましたね。笠松さん?』 そして大きく裂けた口を開き狐はすうっと二足歩行に変わり、笠松の身体を抱き上げた。 ガクガクと泣きはじめた笠松の顔をじーっと見つめてから、黄瀬はまたニッコリと笠松にしか見せない表情で笑った。 『言い伝えを守れない悪い子は、足を切っちゃおうか』 『ぃ、い……イ、いっ……ィひ、……っ!』 『いや?』 『……っ。(こくこく)』 『じゃあさ、代わりに俺と結婚しちゃいましょうか』 『ぇ、え―――?』 恐怖に満ちた顔のまま固まった笠松が目を見開いて黄瀬を凝視していると、黄瀬は「いやっすか?」と訊ねた。そのくせ酷く強制を含んでいるように聞こえた。すくなくとも笠松には。 まだ幼かった笠松は反論することもそのおかしさを指摘することもできずに、ただ素直に頷くしかなかった。 そして今現在。 笠松は人間として成人を迎えるのを待たれている。その日がくれば強制的に黄瀬と夫婦にさせられるのを、さだめられて。 これは結構有名な話だ。黒子たちこの地方の神様の間では。そのことを笠松は知らないが。 神様が人間――しかも男だ――と夫婦になるなんて到底普通の事じゃないが、一度神様が口にした約束事はそれなりに力を持つため、今さら破棄できない。 そのため笠松は生涯ここで生きることを強制され、移住した。 黄瀬が幸せそうに笠松のことを二人に惚気ていると、奥の方からほかの神様たちがぞろぞろとやって来た。 黒子がそれを視界に入れたとき、思わずショックで倒れそうになる。 誰一人として木吉を非難しようとしないのだ。辛うじて花宮が不快そうな顔をしているが、諦めているのか注意しようとしない。 口々に己の大切にしている人間のことを口にしては盛り上がっていた。大切にしている相手への……過干渉のあまり、相手を苦しめているとは気づかずに。 強く風が吹いて水色の髪を揺らす。 雪が降っていたはずの山は落ち葉が散らばっており、寒さがもとの半分に抑えられていた。異様な春への進歩に恐怖を感じる。 となりに立っているはずの仲間たちの心が遠いような気がして、黒子は苦しくなりポロリと零した。 「―――君たちは狂っている」 誰の耳にも届かなかった台詞。 黒子は反応のない彼らに、唇を噛みしめた。

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