404号室ジュリエットは監禁相手に
(今日もいた…) ベランダのすりガラス下部が、ほんのり群青色に光っている。 エレンは階段から身をのり出して、向かいのマンションのベランダをのぞき見た。べろりと首元が伸びた黒いシャツ。明るい色をした髪の毛。そして鼻をつくアルコールの臭い。 薄着をしている彼女から、鼻をすする音が聞こえた。 エレンは考えるよりも先に、声をかけていた。 「泣いてるのか?」 「……」 返事がない。まさか聞こえなかった…とか? 確かに、夜中23時だからって小声にし過ぎた気もするな。 エレンはもう一度、斜め下に向かって声をかけた。 「なあ」 「――心配してくれてありがとう。なに、花粉症なだけだ」 想像よりも低い声。 「っ…!?」 驚いて、言葉が詰まった。 ベランダの影が揺れはじめる。 月明かりのしたに現れたのは、体格に似合ったがっしりとした肩、金色とも薄紅色ともとれる淡い髪、そしてほっそりと伸びた長い首だった。 思い描いていた柔らかい身体は、どこにもない。 「…くく」 ベランダの手すりに頬杖をつき、どこからどう見ても立派な大男は、目を細めて笑っていた。 「驚いたって顔だな。よく言われるんだよ、後ろ髪が長いから女かと思ったってな。残念だったなあ、学生くん」 男性は、愉快そうにくつくつとまた笑った。 顎髭を撫でていた指で、前髪を掻きあげる。耳上のかりあげが月夜に照らし出された。綺麗な首筋まで、くっきりと見えた。 ごくり。 無意識のうちに唾を飲みこんでいた。 そんなエレンには気づかず、男性はちらりと背後に視線を送ってから、階段の方を向きなおした。 「反省したならさっさと部屋へ帰れ。こんなところにいたら、それこそ碌なことにならねえぞ」 「だ、だから外にいるのか? あなたは」 「電波が悪いだけだ」 男性は口早に言った。この話題は、あまりされたくないのかもしれない。 だがしかし、ここで察して引き下がるような聞き分けの良いエレンじゃない。こっちだって、ずっと話しかけるタイミングをうかがってきたのだ。大学の授業中にも、ノートにメモを走らせ計画してきた。二度とないこんな機会に、ただで引き下がるなんて、とんでもない腰抜けのすることだ! 「も…もしもあなたが、家の居心地が悪いっていうんなら、こうしてまた外で話をしたいと思って…俺」 「ひひ」 はりきって練習してきたはずなのに、何度も噛んでしまった。恥ずかしい。しかも当の本人にまで笑われてしまって、もっと情けなかった。 第一、大人相手に、心配だから頼ってほしいだなんて! もっとスマートに誘う文句があっただろうに。 男性の押し殺したような笑い声が、夜風を撫でる。 「くく…まるで、ロミオとジュリエットだな」 「は?」 「おまえのことだよ」 男性が眉端を下げて、ゆっくりと口の形を動かした。おまえ、そう、エレンのことを言っていた。 その瞬間。ドアの開閉の音が聞こえた。どこの家のドアだろうか? エレンがなんとなく考えていると、今まで余裕を見せていた男性の表情が曇り始めた。 緩く下がっていた眉は、厳しく寄せられている。眉間には皺が深く刻まれていた。 一体何があるというんだ? エレンがたずねようとすると、ベランダのむこう側から声がした。 『待たせたな。ジャン』 窓に阻まれているが、その声はたしかに男性の部屋の中から聞こえた。 男性はそれに返事するよりも先に、エレンに言った。 「さっさと部屋に帰れ、マンモーニはおねんねの時間だ」 「誰が~~、っ!!」 むかっ腹が立って言い返そうとすると、同時に、からからと窓がスライドする音がした。 反射的にエレンは座り込む。理由はない。しかし、こうした方が賢明だと本能で思った。 「おいジャン」 鋭い第一声が、夜を切り裂いた。大きい声じゃない。それなのにどうしたことか、その声は威圧感をもっていた。 ざら、と地面を踏みしめる音がする。ジャンと呼ばれた男が振り返ったようだ。 「勢いよく窓を開けるのは、マナー違反じゃねえのか? 真夜中だぞ…」 「あの女が帰ったっていうのに、どうしてすぐに部屋に戻ってこない? まさか誰かと話していたのか」 「そんなわけあるか」 部屋に帰ろうにも、下手に動けば足音が立ってしまう。別に悪いことをしているわけじゃないのに、なぜか相手に気づかれることは、良いことではない気がした。 今さら空腹を思い出すけれど、こんなときに空気を読まず、鳴らすわけにはいかない。我慢しろよ、俺のお腹。そう念じた。 ぴちゃ、ぴちゃ クチュッ…くちゅっ…。 水っぽい音がどこからか聞こえた。雨より、もっと小さな音だ。 「…ぁ…ンぅ」 押し殺したような音。すごく、苦しそうだ。 息継ぎに失敗した水泳のときのように、水に溺れそうな声だった。 それが何なのか、分かった瞬間、エレンは頬がかあっと熱くなった。叫びそうになる口を慌てて塞ぎ、瞬きすることを忘れた。 たしかに、彼には妙な色気があるなと思っていた。髪をかきあげる動作ひとつにしても、女性的な艶めかしさを感じた。視線の送ってくる姿は、どこか寂しそうな雰囲気をまとっていて、相手を放っておかなくさせる節があった。それが【男】を知っている大人だとすれば、なるほど、説明がつく。 ――女が帰ったって言ってたよな…付き合ってる奴がいるのに、異性を家に招き入れて平気なのか? エレンの疑問が形になった頃、卑猥なジャンの息継ぎの声が静かになってきた。 肩で息をする声が、細々とまだ聞こえる。 ずくっ、とエレンの胸がなぜか高鳴った。 「あんなぁ……外で、すんなって…いつも、言ってんだろ」 「お前が隠すからだ」 「隠してねえって…続きはしねえのか」 「ほぉ。珍しくノリノリだな?」 「――そういう気分なんだよ」 尻すぼみするジャンに、機嫌よく鼻を鳴らす男。窓が開く音がして、二人が部屋に入っていくことが分かった。 エレンはあわてて立ちあがり、ジャンの部屋を見おろした。 もうすでにカーテンが引かれている。しかし。 「……さいあくだ」 わざとだろう。遮光カーテンのみ、開かれている。 オレンジ色の温かな灯りが真夜中の町に広がり、その中で押し倒される人の影を淡く映し出していた。 しばらくの間、影を茫然と眺めていたエレンだったが、防音らしいジャンの部屋からは、悲鳴ひとつ聞こえないことに気がついた。 どれだけジャンの影が逃げまどっても、その声は欠片も聞こえない。まるで部屋の中が一つの世界のようだ。誰もその光景に気がつかず、手を出すことができない。 ドアひとつで隔てられた、ふたりだけの世界。 エレンは、ジャンの身体がひときわ激しく震えたことを確認してから、やっとのことで階段を上がりはじめることができた。 玄関を開けたときには、すでに膝の力が抜けかけていて、何をする気力も湧かなかった。 靄がかかったように白む脳内に、ぼんやりと嬌声が響く。いましがた耳にしたばかりの、男性の声にそっくりだった。 エレンは風呂に入る気にもなれず、初めて夕食を抜いて布団に入った。あれほどお腹が空いていたはずなのに、ぐるぐると内臓を掻き回されるような感覚がして、気持ち悪かった。 電気を消して真っ暗になった部屋の中。目を閉じれば、瞼の裏で、さっきの男性がニヤリと笑っていた。ベランダの手すりのうえで頬杖をついている。次の瞬間、うしろから手が伸びてきて、男性は部屋の中に引きずられて行ってしまった。 今でも、あの部屋では、官能的なことが行われているんだろうか。 建物を一つ隔てた、あの部屋で。 男性、ジャンは、一体どんなことをされているんだろう…痛いこと? 気持ち良いこと? キスよりも…もっと、すごいこと? エレンは目をハッと見開いた。 ――何を考えてるんだ。ジャンが組み敷かれているところを想像したって、寒気がするだけだろう。相手は大の大人、しかも男だぞ? そこには、おっぱいがないっていうのに! エレンは、暗闇を睨みつけながら、自分の浅はかな妄想を叱咤した。 ただひとつだけ、気になったことがある。 「ロミオとジュリエットって、なんだったんだ?」 あの有名な、シェイクスピアによる戯曲のことを言っているのだろうか。それならば、さわり程度の知識しかないエレンには、ジャンの真意を探ることができまい。 まあ、たんに揶揄われただけかもしれないが。 ▽ 寝不足のまま朝を迎えたエレンは、それでも1講目を受講するために、ローゼ大学のキャンパスにきた。 あくびを何度も噛み殺し、目を赤くしているエレンのことを、誰も突っ込みはしないが、遠巻きに見て、不思議に思っていた。 そんな中で、幼馴染のアルミンは、心配そうに視線を送ってきた。声を掛けようか掛けまいかで迷っているらしいが、挙動不審すぎて、ばればれだった。 あまり聞かれたくない事情だったので、エレンは適当に手を振って、大丈夫とアピールをした。 昨晩は、目を閉じるたびに、あのジャンという男のニヤリと笑う顔が瞼裏に浮かんで、おちおち寝てられなかった。日を跨ぐ時刻になると、ついに幻聴すら聴こえ始めているありさまだった。実際にはジャンの嬌声を聴いたわけじゃないので、鼓膜に蘇るのは、手持ちのAV女優のそれだったのだが。 瞼にさえぎられた暗闇では、襟元のくたびれた服を着たジャンが、ぼんやりと浮かび、そして見せたことのない涙を目にたっぷりと浮かべていた。 薄い唇が震え、そして息を詰まらせて、つらそうにいった。 『も、もっと、ッ、ちゃんと、くれ、って』 ありもしない艶めかしい声が、ソレを強請ってきたせいで、エレンの下半身は元気になってしまったのだった。 流石に二日連続で、寝不足なのはまずい。体力がある方だといわれるエレンでも、講義中にずっとうつらうつらとしているのは、寝た気がしなくて、気分が優れなかった。 講義がすべて終わった昼下がりになり、アパートに帰ったエレンは、すぐにベッドにもぐりこんで仮眠をとることにした。 階段をのぼる最中に、なんとなく昨日の部屋を覗いたが、カーテンが閉め切られているせいで何も見えなかった。心なしか窓が揺れていた気がしたが、真相はわからない。 目を閉じればまた、瞼の裏に彼が浮かんだ。見たことのない表情をして、頬を上気させている。これは一体、どういう…。 そのまま気絶するように、眠りに落ちた。 18時になってエレンが目を覚ますと、ちょうどバイトの準備に良い時間だった。19時から塾のバイトが入っている。今日も帰りは23時になるだろう。そう、昨日、あの男性と会った、あの時間に。 ……ごくり。 エレンは無意識のうちに喉を鳴らしていた。 意味もなく髪の毛を念入りに直して、鏡でチェックする。どうせ風が吹けば乱れてしまうというのに。 バイトが終わり、最寄りの駅におりた。時刻は昨日とほとんど変わらない。 気を紛らわせるように鼻歌を歌っていたエレンだったが、アパートが見えてくると、段々声も小さくなっていった。もはや現実と妄想の区別がつかないほど、何度もジャンのことを――いや、やめておこう。 そういえば、ロミオとジュリエットについて、何もわからなかった。本当になにか、意図があるんだろうか? たとえば、そうだな…医者をしているうちの親のことを指している…とか。って、そんなわけないよな、俺の親のことをジャンが知る訳がないし、うん。 比較的裕福な自覚があるエレンは、親の話を出されることが嫌いだった。そのため、なにか意味深なことをいわれると、まずはその一番嫌なことを疑う節があった。 エントランスの暗証番号を打ち込み、階段につながる自動ドアを抜ける。夜中なので足音に十分気を配ってあがっていくと、二階と三階の間にある階段にさしかかった。 そっと、向かい側のベランダをのぞきこんでみる。建物の高さの関係で、エレンのアパートの方が若干高いためだ。 ベランダのすりガラスに、影ができている。置き物かと思ってじーっと見ていると、ぶるっと身ぶるいをしていることに気がついた。 「あ……今日もいた」 むくっと影が立ちあがっていく。 彼が手すりに腕をかけた。 「また来たのか」 月明かりの元に現れたジャンは、呆れたようにそう言った。 しかしエレンはその表情よりも、昨日とまったく同じ服の首元からのぞく色濃い痣に悲鳴を上げた。 「なっ、そ、そのくび、一体どうしたんですかッ!?」 「コラ。そんな大きい声を出すな、マンモーニ。鵺に連れて行かれるぞ」 ジャンが落ち着いた声で諫めてくる。 「ぬ、ぬえ?」 「なんだ、鵺も知らねえのか。なら、なおさら静かにしておくことだな。子供が出る幕じゃねえよ」 「だからなんですか、鵺って」 「こわーい妖怪だ。本当に…こわい……人間を平気で連れさらう、妖怪だ」 手すりのうえで頬杖をつきながら、ジャンは目を細めた。 からかわれているのだろうか? しかし暗がりの中では、それをたしかめる術がなかった。 ジャンの部屋の灯りが、カーテン越しにうっすらと見える。昨日は開かれていた遮光カーテンの方も、今は閉じられているらしい。 やっぱり、わざとだったんだろう。 エレンはちりちりと心が焦がれるのを感じた。見せつけられたんだ、おそらく。 こいつは俺のものだ、お前なんかは相手にされない、そこで指をくわえて見ていろ――脅されている。 ジャンはこのまま、あの男と一生いるつもりなのか。夜中に家に女を連れ込むような男と。それに、ジャンの首についているあの痣は、どこからどう見ても指の痕に違いない。扇状に広がった数本の線が、左右対称につけられている。喉仏を避けているようだが、相当の力を込めないと痣なんかできるわけがない。 よくよく見てみれば、ジャンの目尻がほんのり色付いている。目を擦ったのだろうか。月明かりですら識別できるぐらいに、肌の色が濃くなっていた。 エレンは、何があったのか尋ねたいと思いながらも、ジャンが昨日のように話をしようとしているので、なにも聞けなかった。 でも、ただでは家に帰れまい。 エレンは、無計画のまま話しかけた。 「……あ、あの」 「ん?」 ジャンが首をかしげて、ぼんやりと相槌をうつ。 可愛い――無性にそう思えた。 ハッとして、エレンは思考を切り替えて、今日一日悩んでいたことを思い出した。 「あ、あれは、どういう意味だったんですか?」 「主語がないから分かんねえよ。あれって何の話だ?」 「ロミオとジュリエットですよ!」 「あーそういや、そんなことも言ったな…。なんだ、そんなこと、覚えていたのか」 驚いたな。 ジャンは指を唇にかけて、目を丸くした。 「深い意味はない。ただ……そんな高いところから、オレに声をかけてきて、相当の物好きだなって思っただけだ」 「それだけ?」 「他にどんな意味があんだよ…」 確かにそうだ。エレンは、勝手に過剰反応して、親のことを連想していたが、普通に考えて深い意味はないだろう。ジャンのエレンを見る目は、いつだって綺麗なままだ。 ベランダに向かって話しかけていると、部屋の奥の方で、ドアが動く音がした。 夜の街に、「じゃあまたね」の高い声が静かに響く。 ふと、ジャンが目を閉じた。心なしか、顔色が悪いような気がする。それは今さっき、女が家を出たことと関係あるのだろうか? 「帰れ」 ジャンが鋭く言う。しかし決して、怒っている様子ではない。 エレンは咄嗟に言いかえす。 「ま、また明日! バイト帰りにここにきます」 「もうやめておけ。おまえが酷い目に合うだけだ」 ジャンが窓の方に戻っていく。 もう行ってしまうのか? 何も約束せずに? 次も会えるか分からない、っていうのに? ――それは嫌だ。 「明日は? 明日は、駄目なんですか?」 「……」 「なら、その次の日は? 俺はいつでもここを通ります。もし明後日が駄目なら、その次の日にでも…」 必死だった。次もまた、今日みたいに、ジャンの痣が増えていたらどうしようだとか、もうベランダに現れなかったらどうしようだとか、そんな嫌な想像ばかりが脳裏をよぎった。 またエレンは矢継ぎ早に、 「じゃあ、その次は? 昼間だって俺は空いてるから」 と言った。 「……っ」 ベランダの方から、息をのむような声が聞こえる。ジャンは悩んでいるらしい。 酷い目に合うぞ、と忠告するぐらいだ。エレンの身を案じてくれているのかもしれない。だが、そんなのは不要な心配としかいいようがなかった。 エレンの望みは、ジャンとこうしてまた会うことなのだから。 「なあ……次も会える…よな…?」 会えないのは嫌だ。それだけは、心底嫌だ。こうして離れたところから話すだけでもいいから、勝手にいなくならないでくれ。 情けなく震えた声で、縋るように伝えた。 ジャンは、軒下の奥に隠れていたが、深くため息をひとつ吐いてから、また月のしたに出てきた。“呆れた、どんだけしぶといんだか”そう顔に書いてあった。 「明日は駄目だ。あいつが…休みだから」 あいつは誰だ、とは聞かない。 エレンは一つ返事で大きくうなずく。 「分かりました。それなら、明後日にします」 「その日だと、昼の方が都合がいい」 「! わかった」 「…無理すんなよ」 「はい! ありがとうございます」 エレンは、声が大きくならないように気をつけながら、それでもはっきりとお礼を言った。 だって、これが言わずにいられるもんか。やっとこじつけた、ジャンとの約束なんだ。ちょっとぐらい無理をしたって、果たしてやるに決まってる。 エレンは約束の響きに頬が緩みそうになるのを我慢して、それからベランダから距離をとった。 「じゃあ、また明後日」 『おいジャン』 同時に部屋の窓が音をたてた。エレンの声は、からからというスライド音にかき消された。ジャンに伝わらなくて残念だと思う反面、男に気づかれるより早く、約束を取り決めれて良かった、と胸を撫で下ろしていた。 「今日は誰にも会ってないな?」 「昨日も会ってないっつーの」 「ふうん。まあいい、部屋に入れ」 声が小さくなっていく。遠のいていくのが感覚的に分かった。窓がぴしゃりと閉められると、エレンはすぐに階段をのぼりはじめた。昨日みたいな失態を、犯しはしない。 なに、簡単なことだ。二人が部屋で何をしているのか、見なければいいこと。ただそれだけのことだった。 「明後日の昼……楽しみだな」 エレンは、音をたてないように、つま先で階段を一気にかけあがった。 昨日のようなけん怠感は、欠片も感じなかった。 「最近何かあったの、エレン?」 オムライスを、スプーンでひと口大に切り分けながら、アルミンが言った。トマトソースがピュレ状になっていて、新鮮な風味だと話題のメニューだ。今日の夕食はオムライスでもいいな。そんなことをぼんやり考えていたエレンは、確信をついたアルミンの質問に固まるしかなかった。 どぎまぎしながら、どうにか平常を装った。 「俺、変な態度とってたか?」 「いや、そんなことないと思うけど。僕は君をずっと近くで見てきたから、気づくことができたかな、ってぐらいだよ。他の人は、気がついてないと思う」 「そうか…」 エレンの口の中はカラカラで、思わず水をあおった。コップに入れてから時間が経っていたので、生温く、全然飲んだ気がしなかった。 「もし、エレンが詳しく言いたくないのだったら、これ以上つきとめたりしないさ」 「わりいな」 「だけど、何か困ったときは相談してくれよ。君は猪突猛進なところがあるから、見ていてハラハラするんだ」 「なんだそれ」 冗談交じりのアルミンに、軽口で返してみたけれど、こればかりは人に言える類のもんじゃねえよな。 エレンの顔は引き攣った。 『監禁されていた大人を、保護している』と言えば、アルミンは絶対に激怒するだろ。 行方不明になって5年。 ジャンの家族から捜索願を出されていると知ったとき、たしかにエレンの良心は痛んだ。きっと今でも、ジャンのことを大切に思う人たちが、必死に捜している。 最悪の事態すら想定して、涙ぐましい努力を尽くしている。 2015年、地方の新聞紙に掲載された、誰も見向きもしないような小さな記事に、そう書かれていた。 ジャンは、この新聞を読んでいなかった。もちろん監禁相手が新聞を読ませてくれるわけもなく、またエレンも、なぜかこの記事をジャンに伝えることができずにいた。 監禁されていたにしては、ジャンの身なりは清潔に整えられていた。毎日風呂に入らせてもらえていたようで、体臭がきつくない。髭を生やしているのだって、無造作に伸ばしているというよりか、長さや形を調節しているようだった。 食事も十分に摂っていたらしく、肉付きも良かった。身長なんか、エレンよりも15㎝高く、ベランダからエレンのアパートに飛び移ったとき、額を打ちかけたほどだ。その長身のおかげでベランダから脱出できたのだから、図体の大きさに感謝するしかないのだが。男として、相手より小柄というのは、プライドが傷付くってもんだ。 露出の多い服をよく着ていたのは、襟口を引っぱられていたからだそうだ(何をしていたのか、とは聞いてない、自己防衛を心掛けている)。首元まで隠れる服を貸してやれば、もはやジャンが監禁されていたことなんか忘れてしまいそうだった。 それが覆されるのはいつも、ちょっとした会話の最中だ。 「安かったから買ってきました」 「おっ、久々に見た。こういうコンビニのからあげって、なんつうか美味いよな」 「わかります。時どき猛烈に食いたくなるんですよね。辛口買ってきたんですけど、良かったですか?」 「おう好きだ。つうかエレン、財布持って行ってなかっただろ。小銭足りたのか?」 「いや、ペイ使ったんで。じゃらじゃらするの好きじゃないんですよ、俺」 コンビニ袋を、キッチン台のうえで漁る。リビングにキッチンが内蔵してあるタイプの部屋なので、ローテーブルで書籍を読むジャンとそのまま会話ができる。ひとり暮らしの小さな部屋、と嘆いていたが、これはこれで良かった。 前回は中華を食べたような気がする。たしか俺が作ったよな? そう思いながら、袋から豆腐を取りだすと、本から顔をあげていたジャンと目が合う。なぜか首をかしげている。…ああ、そうか。 「最近流行ってるんです、学生の間で。ほら、QRコードをスマホで読み取って、カードで決算をするんです」 「なるほどな」 ジャンの視線が本に戻ったのを見て、納得してもらえた、と安心した。 本当は、学生の間でペイなんて流行っていない。むしろ社会人のほうが金があるわけだし、カード決済の割合も高いだろう。エレンの場合は、支払いの楽な方を選んだだけだ。 ジャンは、自身の空白の5年を知ることを、恐れている節がある。テレビ番組に知らない芸能人が出ることを嫌がり、自分が好きだった曲が名曲扱いされていることを嫌悪していた(そのため、ジャンがいるときには極力、テレビの線を抜いている)。 ペイが流行したのは去年のことだ。社会人や外国人の中で、特に好まれていた。しかしそれをそのままジャンに伝えれば、監禁されたせいで社会人を辞退せざるを得なくなったことを思いだし、辛い思いをするかもしれない。せっかくベランダから外の世界に出てこられたというのに、憂うつな気持ちになっていたのでは、なんのために外に出たのか分からないだろ。 エレンは、『空気が読めない野郎』だといわれてきた分だけ、ジャンに配慮して、言葉を選んでいた。 「豆腐と長ねぎ買ってきたんですけど、今日は俺が当番でしたっけ? なんとなく、八宝菜作った記憶があるんですけど」 「ん~じゃあオレだな」 「はい、任せました」 「了解」 ジャンは、本をテーブルに置いて、腕まくりをはじめた。腕の筋肉の線がうっすらと浮かんでいる。やることがない間、趣味が筋トレだった、と漏らすだけはある。 働き始めてからずっとひとり暮らしだったらしいジャンは、たいていの家庭料理を作ることができる。漢料理というより、ひとつひとつ丁寧に形を整えようとする。今日買ってきた豆腐だって、きっと丁寧に取り扱ってくれることだろう。 そんなジャンだが、料理をした初日。母親が作るような手料理をみて喜んだエレンに対して、 「もっと早く作れ、って言わねえのか?」 と不思議そうにしていた。 彼曰く、早く食事をすませて、夜に備えるのが常だったそうだ。料理の見栄えなんか関係ない。具材なんかどんな形でも同じだろうと。 エレンはとても残念に感じた。こんなに心を籠めて包丁が扱われた料理は初めてなのに、それをジャン自身が自覚していないだなんて。大変もったいない。 エレンは、ジャンの考え方を改めさせるために、交代で料理を作ることを提案し、大袈裟にジャンの手料理を褒めることにしている。この気持ちのいくらかでも、ジャンに伝わればいいと思う。 「テーブルの本、片付けときますよ。あと、洗濯物はほっといていいって言ったじゃないですか」 「昼食作るんだから、臭いがついたら大変だろ」 ジャンは、包丁をリズミカルに動かして、長ねぎをななめ切りにしていく。カンカンとまな板の音が楽しい。そういえば、冷凍庫に鱈の切り身が残っていたかな、とエレンが伝える。今日の昼食は間違いなく鍋になっただろうな…。あご出汁スープの素を取りだすジャンを見て、エレンは苦笑いした(春先に鍋か、とも思ったが、ジャンの好きなものを食べたいという欲が勝った)。 昼食ができるまでに、ベッドの足元に積まれてあった洗濯物を箪笥に入れておく。昨日のバスタオルやフェイスタオルをどうするか悩み、エレンはジャンに声を掛けた。 「できるまでに、コインランドリーに行ってきてもいいですか?」 「ん。あとは鍋にぶっこむだけだから、早くしろよ」 「分かりました」 エレンの部屋には洗濯機がない。そのかわり、アパートの一階にコインランドリーがあった。他人と同じ洗濯機を使うことに、エレンは抵抗感があったが、ジャンが「普通だろ?」と気にしていなかったので、諦めて使うようになっていた(今までは実家に送っていた)。 回し始めれば30分はかかる。それなら、昼食前に回して、ジャンを送ってから取りに行けばちょうどだろう。 ふんわりと温かな香りに鼻孔をくすぐられ、今日の料理も美味そうだと頬が緩んだ。 焼きねぎがアクセントになって、〆のうどんも美味しくいただけた。 「やっぱり、ジャンの料理は美味しい」 腹をさすりながら感想を伝える。なんかくすぐったいが、こうしてちゃんと言葉にしなければ、ジャンはすぐに食器を片付けようと動き出してしまう。 「なっ…! おまえ…いつも、いつも…よくそんなに褒めれるな」 案の定箸を集めていたジャンは、顔色は変わらないものの、唇をむずむずとさせていた。その手は止まっている。照れ臭いらしかった。 「本当に美味しいですって。ちょっとしたアレンジもしてあって、飽きないし。次は何作ってくれるんだろうって、いつも楽しみにしてるんですよ」 「……そうかよ」 ジャンが鼻のしたを擦る。ジャンが照れたときにする、数少ない仕草だ。 彼の行動の意味を知ると、エレンはどうしても(…かわいい)と思うのをやめられなくなる。できればもっと喜ばせてやりたいし、照れた顔だってもっとまじまじと見たい。 だからこそ、警察にジャンを届けることができなかった。 こうやって少しでも照れてくれるようになるまで、相当の時間がかかった。はじめに褒めた時なんか、酷いもので、「なんで?」と聞き返された。褒められるという感覚が、監禁生活で麻痺してしまっていたようだ。 食事の後片付けぐらいさせてくれ。エレンは、ジャンの手元から箸をかき集め、食器の上に乗せた。テキパキとシンクに運び、ジャンに有無を言わせない速さで片付けていく。 フェイスタオルで手の水分をとって戻ると、手持ち無沙汰になったジャンと目が合った。すこし眉を寄せている。後片付けもしてやろうと思ったのに…と訴えかけてきた。 「いいんです、ジャンは作ってくれたんですから。すこしは手伝わせてくださいよ」 「…」 「ね?」 「……ん」 両手を合わせて片目をつむると、ジャンはしかたないと、諦めたようにうなずいてくれた。なんだかんだ年下に甘いのがジャンだ。 それはともかく、ふとした際の返事が「ん」なのが、妙に子供っぽくて可愛い。髭が生えた三十路近くのお兄さんなのに、その不釣り合いな雰囲気が、可愛いようなエッチなような気がして、 (本当にこの大人は……) と心臓が痛くなった。 正午過ぎの空は雲ひとつなく、春の陽気を体現している。ローテーブルをふたりで囲みながら、大学の話をした。エレンの学科はジャンにとって目新しいジャンルらしく、何度話をしても楽しそうだ。ジャンに話をするために、エレンは講義を積極的に受けるようになったし、良いこと尽くしだった。 時計の針が14時を指した。ジャンがふと腰を上げはじめたのを見て、エレンは、時間になったことに気がついた。 「次は明後日ですか?」 「そうだな…またあの時間だ」 「分かりました。バイト終わり、ですね」 ジャンが着ていた服を脱ぎはじめた。その間に、エレンは畳んであった白いTシャツを手に取って、ジャンに渡した。首元がよれよれの服は、囚人服のようにジャンの身体に纏わりついていく。 そのまま裸足で外に出るジャンの後ろを、エレンは慌てて追いかけた。最後の最後まで一緒にいたいと思うのが、恋心というやつだろう。これっぽっちも、ジャンには伝わっていない恋心だ。 四階から二つ階段を折り返していく間、これといって会話はない。いつも通りのことだ。死刑が執行される囚人のように、ジャンはこの瞬間、息を止めて顔面蒼白になっている。そんな彼を見ていると、エレンはどうにかしてやりたい気持ちで胸がいっぱいになる。 それでも、こうしてまたベランダに送り届けてしまうのは、ジャンの精神的主柱になっているのが、その監禁相手だということを、エレン自身が察しているからだ。 「じゃあ――またな」 「はい、また……」 階段の手すりに足をかけて、ベランダの柵に手を伸ばすジャンが振り返った。それは、笑いかけているようにも泣いているようにも見えた。…ジャンは帰りたくないのだろうか。いつも、相手が帰ってくる2時間前には部屋に戻りたがる。その姿はどこか、ロボットのように見えた。 彼にとって、部屋に戻って相手をお出迎えすることは、ある一種の習慣なのかもしれない。 そんなのは、精神的束縛と一緒だ。 もう帰らなくていい!ずっと一緒にアパートで暮らそう! いっそのこと引っ越したっていい、俺の親の金を使えば――。 でもそんなことをしたって、ジャンの本当の自由にはつながらないだろう。見えないところで束縛されて、逃げられないのが、監禁の怖ろしさだ。医者がそう言っていた。 「…はあ」 ジャンと一緒に過ごせるようになって、しかも身体に触れられる機会が増えたというのに、これじゃベランダでやり取りをしていた時の方がずいぶん気が楽だった。何も知らないほうがまだ、勝手に盛り上がっていられたというのに。 ジャンが部屋に入ったのを確認して、エレンは階段に座りこんだ。窓が締まってしまえば、あの中で何が行われているのか知る術がないのは、今でも一緒だ。何もエレンにはできない。会うたび首に増えていく鬱血痕を減らすことができなければ、赤くなった目尻を冷やすことだってできやしない。 随分と座りこんで考えたあと、他の住人が階段に来るのを察した。 エレンは、アルミンに「なにかあった?」と言われる顔をして、立ちあがる。ここでこのままじっとしていてもしょうがない…洗濯物を取りに行くか。あんまり放置しすぎても、生乾き臭がしてくさくなるしな。 ここからコインランドリーには、すぐに行けた。手際よくレジ袋に洗濯物をつめこんでから、エントランス横に設置されていた郵便ポストの中身を確認する。どうせ学生のポストなんて、水道代や電気代の紙ぐらいしか入っていないだろう。 「……うん?」 ポストの小窓から、白い用紙が見える。水道管工事のお知らせだろうか? そういえば近いうちに再開すると、先週おたよりが入っていたな。詳しい日時が決まったのかもしれない。 暗証番号を打ち込んで、ポストのドアをひらく。手に持っていたレジ袋は股に挟んで、四つ折りにされたコピー用紙を両手で取り出した。 【みてるからな】 おしまい