A CONTE~ストーカー系俳優さまの思惑~ 第6話
飛んできた壁の破片の下敷きになって、弟が号哭している。右脚の膝下が完全に潰されていた。 キッシュは、相手が大嫌いな弟だということも忘れて、脇目も振らず駆け寄った。 「ベンっ、ベン!」 名前を呼ぶが、反応がない。 弟は悲鳴を上げているだけ。 「今助けてやる、待ってろベン!」 絶え間なく降り注ぐ瓦礫の中。腕で小石を防ぎながらにじり寄る。幸いにも声の発生源に弟がいることは明白なので、場所の特定は簡単だった。 どうして今日なのか。 壁の外を見に行くのが昨日だったなら、こんな街なんか捨てていたし、こんな弟なんか死んでいても気が付かなかっただろうに。 「兄さん! 兄さん、神様が怒っているよ!」 弟が咳き込む。ただの咳じゃない。血だ。金切り声を上げ続けた結果、喉を痛めていた。 「僕たちが悪いんじゃない、ベン、しっかりするんだ!」 「だって神様が歩いてくるよ!」 空中を指さす弟の口に腕を噛ませ、キッシュは舌を押さえつけた。 「傷口に砂埃が入り込む前に黙ってろ!」 キッシュの服裾に赤い斑点ができていく。 本当は、地鳴りがしていることを知っていた。しかしながらそれを認めれば、事態はさらに悪化していくということもキッシュはすでに知っていた。 【ユミルの民】 主演 コルト・グライス 欠伸が漏れた。昨日、夜遅くまで台本を読んでいたせいだろう。撮影まで二週間を切ったので少しの無茶は当たり前だった。 陳列棚にクラムチャウダーが並ぶと、冬まであと少しだ。 コンビニバイト歴三年のジャンにとって、どの時期に何が出るといった情報を覚えることは、お茶の子さいさいだ。 「ジャン、彼氏のストーカーが来てるぞ」 「は? ストーカー?」 半年前の炎上騒動。もう誰も話題にしなくなったが、この店長だけは頑なにフロックのことを「彼氏」と呼ぶ。はた迷惑な人だ。 店長の親指が曲げられた先を見ると、窓ガラスの外に赤いレインコートの頭があった。いま、雨は降っていない。明らかに異質な存在だった。 「オレって何かしましたっけ、最近こんなことばっかりなんですけど」 「そりゃ、したからこんなことになってんだろ。彼氏がビッグだと男もツラいよな〜」 「彼氏でもなければ、赤の他人なんですけどね。あと、オレもビッグなんですよ。テレビ出てンすけど、知ってます?」 「そりゃ驚きだなァ」 店長の引き笑いが、店内に響く。 外のストーカーは、ここ最近毎日やって来ていた。そのことから考えると、今日も夜まできっちり待ち伏せしそうだ。 昨日、一昨日は、自称彼氏が趣味の悪いオープンカーで迎えにきていたが、今日はラジオの収録があるらしく、律儀に謝罪の留守番電話をよこしてきた。残念そうに話すのが癪に触るので即削除した。 「もう帰れ、お前」 店長は、ストーカーの動向を見守りながら、バックヤードを顎で指した。裏口から出ろということらしい。 給料減の文字が脳裏をよぎったが「労災ってことで上には黙っててやるよ」という神の一言で決心した。 目立たないように、ジャンはそれなりにある長身を屈ませながらバックヤードへ向かった。 手早くバイト制服を脱いで、ショルダーバッグと一緒にわきに抱え込む。マスクとキャップは必需品なのですぐに身につけた。 机にあったレシートの山から適当に一枚選んで、裏に『ありがとうございます』と書いたが、慌てすぎて文字が歪んだ。書き損じた分をポケットに入れると、やっと二枚目で綺麗に書けた。卓上のペン立ての下にそれを挟む。 外に出ると、すでに太陽が傾いていた。年末になるにつれて日の暮れは特に早くなっている。 「晩飯……何もねえな」 こういうとき危険な目にあわないように早く帰るべきなんだろうが、食べる物がなければ話にならない。帰路からは離れてしまうが、百貨店がある大通りまで行こう。それに、人を隠すなら人混みの中というから。 時刻は十八時過ぎ。駅前の人もだいぶ増えた。人混みの方が安心すると思っていたのだが、ここまで来ると気が滅入る。時間をあけて帰宅した方がよさそうだ。 百貨店の外ベンチに座り、買っていた軽食で腹を満たした。 ベンチに深く腰掛け直していると、目の前に見知らぬ子供が立っていることに気がついた。 「お願いします!」 あからさまな笑顔で紙を渡される。ポストカードより小さい。目を凝らすと、そこには『民話をアレンジした最高傑作! 〜ユミルの歴史にあなたも触れてみませんか〜』と書かれてあった。 新手の宗教勧誘かと訝しんだジャンが受け取らずにいると、子供は臆することなく、ずいっと紙を押し付けてきた。 「チラシが無くならないと、今日の上演に出させてもらえないんです」 「上演って?」 「ユミルの民」 ジャンたちにとって親しみのある、幼少期に必ず親から教えられる民話の一つだ。だから紙に名前が載っていたのか。 「それならもっと分かりやすいチラシにした方がいいぞ。これじゃ宗教勧誘だと思われる」 「私に言わないで、それを作ったのは監督よ。文句があるなら監督に直接言って」 小さなその肩をすくませて、身体よりも大きなリアクションをとってみせた。なかなか根性が座っているな。さすが、キャップにマスクといった不審者姿のジャンに話しかけてくるだけのことはある。 「お前も出るのか?」 「そうよ、初公演なんだから」 「何の役?」 「それは観に来てからのお楽しみ!」 快活な言いっぷりに舌を巻く。 案外、こういうガキが大きくなった時にテレビに出ている。 ジャンはスマホを取り出して、明日の仕事に響かないことを確認した。 映画はよく観に行くが、演劇の箱となれば、ジャンはお笑い以外浮かばない。なんせ芸歴七年目の中堅だ。 颯爽と飲み屋街を歩く子供は、やけに街並みに馴染んでいる。客引きをする店員が「ガビも客を呼べるようになったのか」と親しそうに声を掛けてきた。子供はガビというらしい。 繁華街の端までくると、三階建ての細長い建物の前でガビは立ち止まった。およそ劇場というには無理があるサイズだった。 しかし、建物の外には列ができていた。 「あれはなんだ?」 「公演後にある撮影会の抽選。一回五百円よ」 「あんなに人気なのか」 「ファンは多い方だと思うわ」 箱の規模で劇団の価値を推し量るつもりはなかったが、見た目よりもすごい劇団なのかもしれない。 列の隣を抜けると玄関にたどり着いた。一階には何もないらしく、二階に続く階段が出迎える。 「二階の入り口にスタッフさんがいるから、そこでお金払ってね。ワンドリンク付いてくるから。お兄さんなら、ワインとか良いと思うわ」 カビはそう言うが早いか、つぎの客引きに行ってしまった。一人ひとりの客をここまで連れてきていたら、時間がいくらあっても足らないだろうに。ジャンは呼び止めようとしたが、階段上から「入場時間となりました、当日券の方はこちらです」と声がかかった。悩んだが、あの子供なら上手くやるだろうと思うことにした。 混む前に階段を登る。ガビが言ったとおり、ワンドリンク頼めるという説明がされた。 チケットを買ってドアに入ると、小さめの劇場という雰囲気のホールに出た。客は好きな席を選べるらしい。すでに前方は埋まっていた。 先に壁際のカウンターでドリンクを頼みにいく方がいいとさっきのスタッフには勧められた。正直席はどこでも良かったので、ジャンはカウンターへ向かった。 バーテンダーの男の二の腕には派手な蛇の刺青が入っている。ガン見していると話しかけられた。 「お客さん初めて?」 マスクにキャップといったジャンの格好があまりに不審だったので、バーテンダーの目は訝しんでいた。 「そうです。こんなところに劇場があっただなんて、知らずに損していましたよ」 「それはそれは。今夜はせっかく出会えたんだから、アルコールぐらい嗜まないと、劇団の女神に叱られちゃいますよ」 ウインクをして見せる男。はて、女神とは誰のことか。まさか、ガビのことを言ってるのか。 頭上に掲げられたメニューを眺める。ワインセラーも並んでいない素人の酒場でワインを頼む気にはなれず、隣に書かれてあるブルーハワイカクテルを選んだ。 「お客さんも良いアルコールを選ぶね」 「それはどうも」 「はい、男の浪漫を詰めこんだ海のカクテルの出来上がりだ」 バーテンダーが言うと、ジャンはマスクの下で凄く嫌そうな顔をした。相手にとって何の意図もない発言だったが、ジャンは気が付きたくもないことを自覚する羽目になった。プラスチックカップに入ったブルーハワイは、海を思わせる深い藍が沈澱していた。 前方にあるのはパイプ椅子。真ん中の通路より後ろは、背もたれの無いボックスチェアーが並べられていた。お笑いの劇場でいえば、最前列と客席に近い花道が人気だ。背丈のある自分がいると邪魔になると思い、ジャンは前半分の最終列に腰を下ろした。 苦いカクテルは椅子の下に置いてしまう。 そのうちに席はすべて埋まり、大盛況になった。どうやらガビの客引きは成功したらしい。 暖房はそこそこなのに、箱の中の熱が上がっているのが肌でわかる。ファンにどれほど愛されている劇団なのか、痛いぐらい伝わってきた。言葉でいい表せない興奮が、首筋をチクチクと刺激する。 ぱっ! スポットライトが、一つ消えた。 客席から悲鳴が漏れ聞こえる。 スポットライトが、三つ消えた。 隣の客がスマホの電源を切る。どうやら始まりの合図らしい。 スポットライトが、全部消えた。 ジャンはそこでやっとキャップを脱げた。 元の話が神話に近いため、コミカルにアレンジする以外ないだろうと思っていた。 まさか街の子供を主役に置き、巨大樹の神から逃げる場面で始まるとは! ジャンは呼吸を忘れて観劇した。 彼だけではない。 演者の息遣い以外何の音もしないほど、観客は舞台に釘付けだった。時には地鳴りがあるように錯覚し、驚きのあまり前の椅子を蹴飛ばす者もいた。 照明が落ち、場内アナウンスが途中休憩を告げた。そこでやっと舌の根元まで乾いていることに気がついた。興奮冷めあらぬまま、誰かとこの感情を共有したくなった。一人で来たことを後悔したのは初めてだった。 落ち着くために、足元に置いていたブルーハワイを一気に煽る。氷が溶けてアルコールの味はほとんどしなかったが、心拍数の上がっているジャンの身体にはちょうど良かった。 プラスチックの側面で頬の火照りを冷ます。 ふと右隣から視線を感じる。 初老の男性が席に深く腰掛けて、こちらを見ていた。男性は不揃いな黒髭を触っている。その姿はまるで浮浪者のようだ。ジャンはそっと視線を外した。そして神経を逆撫でしないようにゆっくりとマスクをつけた。 ジャンは浮浪者にいい思い出がない。売れない芸人は街外れの高架下でネタ練習をするのが王道だが、大体の場合、それは浮浪者たちの家の前でもある。家とは名ばかりの不法滞在なので駐屯兵団が手を焼いていた。もちろん、ジャンに非がないとも言いきれない。ジャンの角が立つ言い方が浮浪者たちの癪に触るらしく、エレンより割増で喧嘩をふっかけられた。 それに比べれば、隣の男性はちゃんとした衣服を揃えるだけの余裕があるらしいので、浮浪者ではないと頭では分かっているのだが、その人相がどうにも苦手だった。 早く後半が始まってくれればいいのにとスマホで時刻を確認する。 「すみません」 小声で呼ばれる。見ると、スタッフTシャツを身につけた小柄な青年が、初老の男性に耳打ちしているではないか。しかも深刻そうに顔を顰めている。もしかして本当に無賃鑑賞なのか。 初老の男性は視線を周囲へと振り、しまいにはジャンと目を合わせた。 「――この兄ちゃんに場を繋いでもらうってのはどうだ。兄ちゃん、芸人だろ?」 正面から見ると、自分の親とそう変わらない年代の男性だった。額の皺を寄せて笑う姿はやはり怪しい。 場をつなぐとはどういう意味だ。 ジャンは後ろにいるスタッフを見た。 「失礼ですが、ジャン・キルシュタインさんでお間違いありませんか?」 「えっ、まあ」 一言で言い当てられると変装の意味がないように感じて言い淀むが、その一方で、自分の知名度が上がっていることに気分が良くなった。 「後半が始まるまで、あと二十分あるんです」 「えらく時間が空きますね」 時間配分を考えなかったのだろうか。もうすでに十五分は休憩しているはずなので、合わせれば三十分以上空くことになってしまう。 「ええ、本当はもう始まる予定だったんです。でも子役にハプニングが起きちゃって、泣き止まないんです」 「子役?」 「はい。それもサブ主人公にあたる子なので、裏に引き留めておくわけにもいかなくて」 サブということはベン役だ。大きめの服と帽子をかぶって男の子になっていたが、おそらくあれはガビだった。 上演前に話したガビはやけに口が達者で、泣き喚きそうにはなかったが、あの子は「初出演なんだ」とも言っていた。 ジャンにも経験がある。 板の上に立てば、初出演の演者もベテラン演者も関係ない。ただ平等にスポットライトが当たる。 その緊張感たるや! ジャンのこめかいに鈍い痛みが走った。ガビの感じる緊張が、恐怖が、まるで自分のもののように思えた。 いつもサクラとして紛れ込むマネージャーがいないのだから、今コントをすればその反応はすべて、ジャンに対する評価ということになる。 できるのか、このオレに? 人前で恥をかくのはもう真っ平御免だ。ただでさえネタというものは数日かけて練り上げるものだ。どんなベテランも、大御所も、きっと同じことを言う。 ジャンは断る言葉を脳内でリピートした。しかし次の瞬間、真逆のことを言っていた。 「オレは二十分間、粘ればいいんですね?」 これじゃまるで承知するための質問だ。ジャンは慌てて否定しようとした。 しかし隣の男性に言葉を遮られた。 「それは違う。俺の舞台が最高の出来になるような話をしなくちゃならねえ。そんじょそこらの適当な話で滑ったりなんかしたら、タダじゃおかねえぞ坊主」 「俺の舞台……?」 「そうだ、俺の最高傑作だ」 男性は両手の人差し指をあげて、まるで銃を打つポーズをとった。そして「BAN!」と言い足した。ジャンは知っている。雑誌で見かけたことがある。かの有名な舞台監督のする癖だ。 胃の中が震える。なんでこんなところに、こんなすごい人がいるんだ。 男性は話す。 「お前さんにも芸人としてのプライドがあるだろう。それと同じだ。俺もプライドをかけて毎公演行っている。シナリオ作家も、演出家も、照明も、役者も。すべて俺の思い描いた世界を作り出す歯車だ。ガキ一人の泣き言なんかで、この世界をめちゃくちゃにされてたまるかってんだ」 男性の目は笑っていなかった。 ジャンは殺気立った視線に捕まりながら、質問を付け足した。 「じゃあどうしてガビを奮い立たせに行かないんですか?」 「あいつは一人でも立ち上がる。そうなるように俺が育てた」 これは信頼だ。時間さえあればまた立ち上がってくるに違いないという、監督と役者の間にできたラポール。 羨ましい。ジャンは思った。自分の活躍を期待してもらえたのは、もう何年も前の話だ。惰性でこの界隈に居続ける自分を応援する人なんて、果たしているのだろうか。 「オレは……」 「なんだ坊主、今更怖気付いたか。数年前、テレビで見かけた時はもうちっと芸人らしい顔をしてやがっただろうに」 「それはオレじゃないですよ。おそらくオレの、隣にいたやつです」 覇気なく小声で答える。自分からは言いたくなかった台詞だ。惨めな気持ちになるな、本当。 すると男性は唾を飛ばして噴き出した。 「見くびんじゃねえぞ、青二才。俺が役者を見間違えるわけねえだろ。詭弁を垂れる暇があるなら、お前も手伝いやがれ。俺の舞台の歯車の一つとして懸命に口を回せ、頭を使え、役に立て。そうじゃねえと今度のドラマ無しにすんぞ!」 「!」 男性、ケニー・アッカーマンは曲がった鼻を揺らして、ヒヒッと魔女のように笑った。やはりこの男が自分をドラマに呼んだのか。 ジャンは拳をズボンの上で握りしめた。 民話『ユミルの民』は、もっともポピュラーな子守唄として親から子へと受け継がれる。 太古の昔、島の周囲には巨大樹があった。その根は、まるで島を守るように広げられていた。 しかし時代が進み、人々は巨大樹を伐採しようとした。鉈を振り下ろしたそのとき、五本の枝が遮った。五本の枝はそろそろと太さを増し、やがて人一人ほどの手になった。 巨大な手はそのまま木の幹を丁寧に練りはじめ、それはまるで粘土をこねるような仕草だった。幹を平らにして、広げ、伸ばし、ついにはパラディ島のどの街からも見えるほど巨大な壁を作り上げた。 それからというもの巨大樹には神様の魂が宿っていると言われるようになった。人々は、その神の名前をユミルと名付け、そしてユミルに守られる我々のことを、ユミルの民と呼んだ。 ネタをするにあたって舞台との温度差を考える必要があった。シリアスな場面が続くのであれば、息抜きになるようなコントにしよう。逆にポップな場面が来るのであれば、前半の流れを復習できるようなコントにしよう。 そんな計画を掻き乱すように監督はこういった。 「守ってくれるはずの壁が蹴破られた。神はユミルの民を見捨てたのか?」 監督は意地悪く笑った。 この人自身、神を信じている訳ではないのだろう。 「主人公たちは訓練兵になったあと、壁を破った犯人を突き止めて話をするんですか。それとも殺してしまうんですか?」 「舞台の内容を教えることはできねえな。いくらお前さんでも、客という立場に変わりはない!」 取り付く島もない。スタッフが小声で「衣装はお貸ししますので来てください」とジャンを呼んだ。監督はすでに自席で胡座をかいていた。 こうなれば諦めたほうがいい。腹を括ったジャンの判断は早かった。 スタッフオンリーのドアに入ると長い通路に出た。曲がって、曲がって、また曲がる。AOTVスタジオより通路は狭く、出演者とすれ違うたびに肘がぶつかった。 スタッフは突き当たりまでいくと、慣れた手つきで重厚な扉を開いた。BGMが溢れ出す。舞台袖だ。暗闇の中で多くの人が行き交っていた。 「ハンガーに番号が書いています。一から十五まではキャストが着るので、それより大きい数字から選んでください。靴はこっちです」 スタッフがハンガーラックを引っ張り出す。 ジャンは戸惑った。勝負服を選んだことがないからだ。 芸人はイメージが重要だ。服装でも、髪型でも、持ちネタでも。それを見ただけで特定の芸人を連想するという、キャラクターイメージが。 ジャンが髭を生やした時、周囲が不快感を露わにしたのはそのせいだ。芸人は俳優とは違う。おいそれと姿を変えてはいけない。ジャンは髭を剃らざるをえなかった。 「あの、真っ赤なTシャツってないですか?」 「ここにあるので全部です」 そばかすのスタッフは首を振った。 赤色はジャンのカラーだ。これはついていない。 するとスタッフは伝えづらそうに言った。 「この時代に、この舞台に、真紅は合わないと思います」 ジャンは押し黙るしかなかった。 音響担当がそばかすのスタッフを呼び出してしまうと、いよいよジャンは一人で考えるしかなくなった。 ネタも服装もそうだが、自分の体格がネックだ。 時代は貧しいパラディ島。頭ひとつぶん飛び抜けて大きいジャンは体格に恵まれており、貧困時代を生きているとは到底思えない見た目をしていた。普通に登場すれば観客の目はジャンの体格に向かうことになる。 考えなければならないことはいっぱいあった。 ジャンが服をやっと選び終えると、音響機械前にいたそばかすのスタッフに手招きされた。 登場時の音楽はどうすれば良いか、と。 確かにジャンには自前のBGMがある。大抵の機材に搭載されている曲のひとつだ。しかしポップすぎる。作品の雰囲気を台無しにしかねない音楽だった。使うべきではない。ならば、無言の中で登場するのか。そんなハイリスク……。 スタッフはこう言った。 「この時代に音楽があるとすれば、それは足音です」 「足音?」 そばかすを揺らしてスタッフがうなずく。 「崩落する壁面、侵入する何者か、そして住処を奪われ慌てふためく人々」 「それらの足音だと」 「はい。それに、この世界は一斉に動く訳じゃない。もしかしたら、家族を探しに出ていく人もいるかもしれない。夜は盗みに入る不届き者がいるかもしれないし、夜泣きする子供もいるかもしれない。静かになる時間は全くなく、常に人の足音が行き交います。まるで今の僕たちの暮らしのように」 「てことは、後半にもう一度壁が崩壊するんですか?」 「それは言えません。あの人を怒らせたくないので。怒ると長いんですよ。それになぜか、舞台の途中でもそのことに気付くんです。恐ろしいことに。本当、なぜかわからないんですけど」 スタッフは金髪の下で太い眉を寄せた。優男のような面ではあるが、芯は強そうだった。 ジャンは考える。 年齢からすると、訓練兵の一員として登場するわけにはいかない。どうしても市民役になる。それならやるべきは決まっていた。 音響担当が「行けますか?」と言った。 ジャンはベレー帽をかぶりなおし、そして頷いた。 舞台の方を見る。目が眩むほど、カーテンの向こう側は眩しい。観客の冷めあらぬ熱気がじりじりと伝わってくる。しかしそれは、芸人ジャン・キルシュタインを待っているのではない。 場内BGMがだんだんと小さくなる。それに合わせるように話し声が小さくなる。咳払いの声がいくつかすると、カーテン向こうの光がパッと消えた。 そして音は何も無くなった。 幕間、開幕。