自動販売機 第6話

「おはよう、八左ヱ門」 柔らかな声が聞こえる。 耳あたりの非常に良い、優しい声。 「いやいや、もう夕方だから……こんばんわなのかな?」 うーんと唸りはじめそうな台詞に、苦笑いが込み上げる。なんだかとっても彼らしいと。 「―――よお」 「よく眠ったね。一日は眠ってたみたいだよ」 「まじ……?」 「起きたら看護師さん呼ぶって約束してたから、とりあえず呼んでくるね」 「ぅ、ん」 想像以上に自分の声が掠れていることに動揺しながらも、竹谷は必死に頷いたり驚きを伝えたりした。 頭の中にはうっすらとした霧が立ち込めているように、ぼやけている。思考回路がグルグル回らず、立ち往生もいいところ。目に映る天井を意味もなく見つめていれば、部屋のドアから音がする。 ―――ガラッ。 寝起きだからか痛む首を動かせず、視線だけを音の方に向かす。 「ぁ……」 「おはようございます~。どうですかー竹谷さん?」 「ま、だいじょ、です……ケホっ」 「喉が乾燥してますね、水分補給しときましょうねぇ」 「は……ぃ」 持っていたボートに何かを書き込む看護師を見て、咳き込みながら返事をする。 言われてみればという感じであるが、喉が水分を欲しているようにカサついていた。唾を飲みこもうにも、まずそれがない。 看護師が突然歩き出したかと思うと、そのまま部屋の隅に置かれてあったウォーターサーバーの前で立ち止まり、機械の口の下部に紙コップを設置した。ウィーン、ウィーンと独特な音が病室に響く。 「僕が持って行きます」 雷蔵が看護師に近寄り、今まさに持ち上げようとしていた紙コップを貰う。何もせずにただ見ているだけ、というのができなかったのだろう。 半分ほど満たされた水が丁寧に運ばれ、竹谷の目の前に現れる。 「はい、どうぞ」 「あ、がと……」 ケホッ、とひとつ小さな咳をしてから竹谷が紙コップを受け取った。恐る恐るというように傾けて、コップの中の水で唇を濡らし、唇の隙間から一滴二滴と潤していき、舌が驚かないようにした。 そしてほっと一息吐けるようになってきたとき、いつの間にか竹谷の足元に立っていた看護師が“おかしな”ことを言い出した。 「昨日どんな夢、見ました?」 「え?」 すんなりと出るようになってきた声に気分が良くなる。 「どうして、そんなこと聞くんですか?」 「八左ヱ門が長く寝てたことと、何か関係あるんですか?」 雷蔵が続いて不思議そうに訊ねた。 すると看護師は眉を寄せて、困ったように笑いながら「やだな~」と言う。 「立て続けに質問攻めしないでくださいよ。答えにくくなっちゃいますよ」 「すみません……」 「いえいえ、でもまあ……ぼくが昨晩に見回ったとき、竹谷さんが少し唸っていたのが気になったので聞いただけです。そんなに深い意味は―――ねえ?」 「夢ですか……うーん、これと言ってなにも覚えてないというか」 「そうですか」 意識がはっきりとしてきた竹谷が『昨日のこと―――』と思い出そうとするが、何も浮かばない。それどころかぐっすり眠れたような気がする。 それをそのまま伝えれば、看護師は納得したように表情を変えて、明日の予定を話し始める。 「今日はもう遅いので明日退院ってことで。検査もできませんし」 「すみません、寝過ぎて」 「いいえ~元気になって良かったです」 それでは、と片手を上げて看護師が去ろうとしたとき、部屋のドアが“コンコン”と叩かれた。 瞬間的に「はいッ!」と慌てて竹谷が返事をすれば、顔をのぞかせてきたのは久々知だった。彼は元より色白な顔を悪くさせては、どこか体調が悪いような雰囲気を身に纏っていた。 「お邪魔します―――具合はどう、八左ヱ門くん?」 後ろ手でドアを閉めながら久々知が問う。 「すっかり良い感じです!」 「そう……」 「ありがとうございます、先生のおかげです」 「うん……」 感謝の気持ちを込めて頭を下げる。竹谷の前髪が布団にあたり、カサッと音がする。 それ以外は音がしない不思議な空間。―――どうして誰も何も言わないのだろうか? 居心地が悪くなった竹谷が顔を上げれば、久々知がこちらを見ていなかったことに気づく。 久々知の大きな目が丸くなり驚愕に佇んでいるのは、どうしてだろう。その視線を辿って、竹谷はやっと気づいた。 その視線の先に―――雷蔵がいる。 そのことに雷蔵本人も気づいているらしい。 居心地が悪そうに苦笑いを浮かべては、「えっと……」と呟いた。 続きを話さない久々知に困り果てた雷蔵は、意を決して聞いてみることにする。 「何か僕に用事ですか?」 「―――だ」 「ん?」 竹谷だけでなく雷蔵も聞きとれなかったらしい。 「もう一度、言ってもらっても良いですか?」 「いや……何もないよ。君は竹谷八左ヱ門くんの友人かい?」 「はい。中学高校と同じの学校の不破雷蔵といいます」 「俺は八左ヱ門くんの担当医の久々知だ、よろしく」 「よろしくお願いします!」 勢いよく挨拶する雷蔵に笑顔で会釈する久々知。しかしながら竹谷にはそれが、素っ気無く見えた。ちゃんと彼の口角は上がっているし、目尻も下がっているのだ。これのどこが違うのだろうか? 分からないが、竹谷は本能的にそう感じ取った。 そして次の瞬間、「久々知先生はこんなところでのんびりしてて、いーんですか?」と看護師に呼ばれた久々知を見ていると、その表情がすんなりと無表情になるのを目にしてしまう。 ぞわッ。 「―――っ!!」 どこかで見たことがある。この“黙れ”という圧力をかけるような目を。 遠い昔の話ではない、そう、むしろ昨日今日という最近のはずである。いつだ……いつだ……思い出せ。 竹谷が己の脳の深いところに対して信号を送っている間にも、看護師と医者は話している。 「こんなところじゃないよ笹山。俺は八左ヱ門くんに具合を聞きに来たんだ」 「じゃ、もう終わったんじゃないですか。戻りましょーよ?」 「―――お前は俺を急かしたがるね」 「そうですか?」 目を細めて久々知を見つめる看護師の姿は、人間の忙しない姿を笑う猫のようだ。対して困り顔でため息を吐きたそうなオーラを身に纏っている久々知は、猫を嫌う人間そのもの。下手すれば今にも蹴飛ばしそうだ。 「ぁ、」 その瞬間思い出す。 彼の視線が凍てついた、そのときのことを。 そうか―――あれは昨日ベッドの上で目が覚めた自分が、『階段から突き落とされた』としつこく訴えたんだ。“大丈夫”と何度も言われ、ついには久々知に面倒だと思われたのか、目で威圧されてしまったのだった。 どうしてこんなに濃い出来事を忘れてしまっていたのだろうか。 忘れるにしては恐ろしいことであるし、繰り返してしまっては悲しいのだから、覚えて反省しておく方が良いのに。 竹谷がそれを思い出して固まっていれば、「疲れた?」と優しい声で話しかけられる。誰かと思って振り返れば雷蔵だ。 雷蔵はベッドの傍らに立ち、不安そうにこちらを見ている。 大丈夫、と首を左右に振っていれば看護師との話に決着がついたのか、久々知がベッドの際に歩み寄ってきた。看護師は反対に「ステーションに戻ります」と言って、猫背気味な背中をさらに丸めてドアから出ていってしまう。 「八左ヱ門くん」 「は、はい」 目でドアの方を見ていれば、久々知が優しい声で話しかけてきた。 恐ろしい姿を知っているせいで竹谷が挙動不審気味になる。傍に居た雷蔵すら怪しんでいるようだ。 「いたくない?」 「へ、いや、まあ……」 痛いかと問われれば、そりゃあ痛い。しかしながら医者に対してそれをどこまで訴えればいいのか良いのか、分からない。そのうえ身体は駅の転落で当然どこもかしこも痛かったのだが、寝たおかげか今はそれに比べれば―――という感じだったのだ。 竹谷が返答にまごついていれば、久々知は何か思い至ったように眉をピクンと動かす。 「そうか、うん」 自分で頷いて納得しているようだった。 「ところで不破くんは、ゲームしないのかい?」 「え?」 突然話題を振られた雷蔵は呆気に取られて聞き返す。 一方質問した久々知は、キョトンとなっている雷蔵の様子には一切触れず、もう一度「例えばスマホゲームとか」と付け足していった。 「僕は細かい作業が苦手なので、ゲームとかそういうのはちょっと……」 「そうなんだ。―――ちなみに八左ヱ門くんは?」 「おれはやってます」 例えば?と久々知に促されるままに、竹谷が答える。 「スマホの格ゲーとか、音ゲーとかはよくハマってやってます」 「じゃあちょうど良かった」 そう言うと医者はとても良い笑顔を浮かべはじめる。それこそ女子が好き好みしそうな容姿であっため、雑誌の表紙を飾りそうな笑顔がそこにできていた。 竹谷には自信があった。この久々知の笑顔は本物だ。どこまでも眉を下げて溶けそうな顔をし、高揚しているのだろうか、白い頬に若干の朱が差している。 ―――それが竹谷には奇妙に映った。 この男はゲームに対してそれほどまでに思い入れがあるのだろうか、と考えていれば、久々知が自らの友人の話をし始める。 「俺の友人がゲーム会社で勤めてるんだ。そこで明後日―――日曜日だね、ゲームの祭典があるんだ」 「はあ……」 「できるだけ色んな年代の人に遊んでほしいって上司から言われてるらしいのに、友人が捻くれ者だから、学生に声がかけられなくて、年齢層が広がらなくて困ってるらしいんだ」 「あー」 ということはつまり、久々知の友人を助けると思って明後日来てほしい、と言っているのだろうか? そう思いついた竹谷は雷蔵に目配せをし、 (どうする?) と伺ってみた。 すると案の定迷い癖のある雷蔵は眉を寄せはじめ、うーんと一度大きく唸ってから、腕を組んでしまう。 (これは駄目だな……長くかかる) 中学高校の付き合いで雷蔵のパターンが分かってきていた竹谷は肩を落とし、自分で考えることにする。 ―――久々知は怖い。それは今の段階で一番強い想いだ。竹谷は自分自身が考えの浅いお気楽者だと思い込んでいるため、その対極側にあるであろう、自分を操って表面を綺麗に繕える人間というものが恐怖の対象であった。それは同級生にも言えることであるし、一つ年上の立花という人間がそれに値した。大人であればなおさらだ。 力はたしかに勝てるかもしれない。 しかしながら世の中には『コツ』というものがある、と柔道で教わった。その『コツ』さえ掴めば、相手の力量がどうであれ簡単に打ち破られてしまうと。 そうならば自分は久々知に叱咤されたとき、怖くて仕方がないのではないか? 力に物をいわせて久々知を負かせられればいい。いざというときは、それで逃げられるのだから。だがもしも、もしも知らず知らずのうちにまた……怒らせてしまっていたら? 自分が気づかないうちに反感を買って、久々知に一発でやられてしまうかもしれない。 竹谷は、布団の下に隠していた包帯まみれの手を小さく震わせる。 (やられるって……殺されるわけじゃないんだから) 相手は医者だ。間違っても暴力に物をいわせてきたりはしないだろう。それならば竹谷は何を恐れているのか―――怖いのは、その“表情”だ。口で言わなければ分からない竹谷にとって、『表情で察してくれ』という相手は苦手だった。 なぜ気持ちを言葉にせずいられるのだろうか? 腹は立たないのか、困っていないのか、嫌じゃないのか? どうして、どうして――― 「どう?」 久々知が赤みのある顔のままたずねる。相変わらず本物の笑顔は奇妙で、怖い。怖い―――が、それでも繕われているよりは何倍もマシだ。 「おれ、行きます」 自分でも驚くほどはっきりと、竹谷は返答を出していた。

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