自動販売機 第9話

天井からぶら下がっているカーテンは分厚く、それをはらう掌に重みが伝わる。扇子のように折りたたまれていたため外見からは気付けなかったけれど、通路のように左右に長くカーテンが続いていた。 (どこまで続くんだ) 地元にある田んぼの迷路を思い出した。 客寄せにもならない観光地として設置されているそれとの違いは、仄かな明かりしかないということ。 そのなかで蜂蜜色の青年を探す。 着る服に迷ったのかチェック柄の上着にボーダーのTシャツを着てきた、破壊的なファッションセンスの雷蔵は、きっとすぐに見つかるだろう。 ふと、よろけた拍子に包帯にカーテンが触れる。 痛みはないはずなのにズキズキとしたような気がして、竹谷は思わず右手でカーテンを突き飛ばす。指先は、雪を触ったかのように冷たかった。 (はやく、はやく、見つけて戻らないと) 暗がりにいると良くないような気がした。 ちらり、とカーテンの隙間から布が見える。 「ぁ」誰かがいる。声をかけようとして包帯を巻かれた右手を上げかけ、止まる。 これは雷蔵じゃない。一体誰だ―――。 「本当なんだっ、本当に、あの……じれったいな……」 切羽詰まった語り口は、やはり雷蔵ではない声。信じてほしいと勢いをつけて話し始めたわりに、まごついて台詞が固まってしまったように「……そうじゃないんだ」と繰り返し始めている。 竹谷はじれったく思いながら、カーテンの凹みに身体を忍び込ませる。仮に声の主がゲーム会社の社員だったら、こんなところに自分がいるのを知られると不味いからだ。 (こっちに来ないといいな) カーテン通路は一本しかない。元きた道を行けば竹谷は戻れるが、それでは雷蔵が見つからないまま。しかしこのまま竹谷が動かなければ声の主と遭遇する確率は50パーセントもある。確率は微妙であるが動くわけにもいかず、話の流れを追ってみる。 すると先程と違う声が聞こえる。電話だと思っていただけにビックリする。 「大丈夫ですよ」 あっ、と驚く。 ひどく聞き馴染みのある声がした。身を乗り出してその主を見てみる。 やっぱり雷蔵だ。 しかしながら、そこにいたことに安心するよりも早く竹谷は困惑した。 ―――雷蔵が泣いている。 それなのに、笑っている。 不破雷蔵はよく笑っていると思われがちだが、実際はそうではない。たしかに無表情ではなくニコニコと柔らかな雰囲気を纏っているが、心から笑っているというより、はにかんでいるような小さな笑いの方が多いのだ。 まだ中学生になりたてで今よりも子供だった竹谷は、その雷蔵の大人びた表情に負けた気になり、苛立って訊いたことがあった。 東京という都会に旅行できたというのに、いつも通りつまらなさそうに愛想笑いを浮かべている雷蔵に、言ってやったのだ。 「楽しくないのかよ、おれといるの?」 すると雷蔵は焦るわけでもなく、やはり困り顔をして控え目に笑ってこう答えた。 「すごく楽しいよ。表情には出てないかもしれないけれど、僕は今とっても楽しい」 その雷蔵の返答がまた、大人らしくきざったらしいものに感じて、竹谷は強めに問い返した。 「だったらなんで大声を上げて楽しまないんだ? 手放しで喜べばいいじゃないか」 「違うんだよ」 「なにが?」 当時から迷い癖が目立っていた雷蔵が、珍しく即答した。 「態度にね、出せないんだ」 なんだよそれ―――そう言いかけた竹谷が雷蔵の顔を見て止まったのは、そのときだ。 友人の目に、大きな文字で“あきらめた”と書いてあった。 もちろん実際に文字が書いてあったのではなく、そんな顔をしていたというだけなのだけれど。 いつも大人しい友人にその事情を聴いたのはそのときが初めてだった。彼が言うことには、雷蔵は感情が表出することができない体質なのだそうだ。ホラー映画を見て怖いときも、顔は強ばるもののそれだけである。小学校の卒業式のときも、一人だけ泣けなかったらしい。 「どうして不破くんは泣かないの、って質問が一番困ったよ。僕だって寂しかったのは一緒なのにね」 そういう雷蔵はやはり笑っていた。 もっと詳しく聞いたのは高校生になってからだ。 図書委員会に所属していた雷蔵に、読書感想文の本を選んでもらっている時にふと「雷蔵が心に残ってる本ってなに?」と訊ねたときだ。 雷蔵はいつも通り悩んでうんうんと唸っていた。そのため竹谷が気を利かせ、 「じゃあ映画は?」 と質問を変えた。 「千と千尋のかみ隠しかな」 「あ~あれ、怖いもんな」 「幼稚園の頃に見て衝撃的だったよ。でもあれの中で僕が印象的だったのは、はじめの食事のシーンなんだよね」 「食事?」 「そう。主人公の両親がご飯を食べる場面があるだろう? あそこが物凄く印象深い」 竹谷は珍しいと思った。自分自身もあの映画は衝撃作で、未だにテレビでしているのを見ると顔を顰めてしまうところがあるのだが、雷蔵の場合はその範疇外を言っているのだろう。 「どうして?」 「んーと、あの場面って両親が“美味しい物があるぞ”って喜んで食事してただろ?」 「うん。まあそうだな」 「それなのに時間が経ってみると、美味しい物を食べた人は豚になってしまった。結局世の中そういうものだって言ってるような気がして、幼かった僕は怖かった」 なんとなくそのとき、雷蔵が『感情を剥き出しにする』ことを嫌うようになった原因を悟ったような気がする。 おそらくこれだけが原因ではないだろうけれど、少なからず雷蔵は映画を見て、 “面白いことがあって心底楽しめる状況であっても、その後には、それを掻き消すほどの絶望がやってくる” と感じたのだろう。 久作という弟が雷蔵にできたときも、嬉しさに涙することができなかったほどだ。喜べる出来事に感情を負かせることができないなんて。 本人がそれを自覚しているにしろ、していないにしろ、現に雷蔵を左右している恐怖。 これから先も雷蔵は、誰かとの別れに悲しみ、涙を流すことさえできないのだろうか? 誰かと結婚することになってもその喜びに、心からの笑顔を浮かべられないのだろうか? 竹谷はそれを背負って生きざるを得なくなってしまっていた雷蔵を、心配していた。 だのに、今の彼は ―――泣いている。 雷蔵は、幸せそうに目を細めて笑っていた。 一体どういうことなのか、竹谷にはさっぱりだった。 手前に誰かが立っているせいで雷蔵の表情がはっきりと見えるわけではないが、それでも頬を濡らしていることはよく分かる。雷蔵の声が半音ほど上ずっているのもその証拠だろう。 ただ泣いているだけであれば、竹谷だって雷蔵に駆け寄れた。お前何をしたんだ!と怒って相手に食らいつけるからだ。 なのに今の雷蔵はというと、竹谷が見たことのないぐらい穏やかな表情をして泣いていた。 その表情のまま、雷蔵は話している。 「僕は怒ってませんよ」 「……本当か? 私は君に刺そうとしたのに、それは、許されることじゃないのに」 「大丈夫ですから。だって僕は貴方を待っていました」 「―――どうして」 雷蔵のその口説き文句のようなものに、竹谷は頬が赤くなる。まるで聞いてはいけない密会に立ち会っているような気分だ。 しかし話の流れについていけず見守る一方だった竹谷の耳に、“刺す”というワードが引っ掛かる。 思わず羞恥心から赤らめていた顔を震い、心拍数を整える。正常になってきた脳に浮かぶのは『事件』という言葉。 (刺されるなんて……そんな、普通じゃない) 刺すといえばナイフだ。ならば雷蔵は声の相手に殺されそうになっていたというのか。 どれほど温厚な雷蔵といえど、殺人未遂の相手を許すとは信じがたい。なのに―――。 中学高校と五年間一緒に居るはずのこの友人が、竹谷にはわからなくなってくる。 状況を把握しようとしているうちに立ち往生してしまった竹谷が、あとすこし、と身を乗り出す。 「駄目だろ、逢瀬を邪魔するような真似は?」 背中から誰かに抱きつかれる。 骨折している左腕を押さえつけられ動けなくなった。 「っ、」驚いて息をのむ。 竹谷の刈り上げた首筋に誰かの吐息がかかる。自分よりも背の高い誰かが抱きついている。それは先程の声と合わせて考えて、明らかに大人の男性だということを示していた。 無意識のうちに握りしめた右拳が震える。 ドクッ、ドクッと心臓の音が鼓膜まで響く。 「はっちゃん……本当は気づいてるんだろ? お前は俺を知ってる」 誰かが竹谷の耳元でささやく。 鳥肌の立つような優しい声に思わず竹谷が首を振り、声から逃げようとする。 「鈍いフリをしていても駄目だよ。あんなにたくさん三郎からもヒントをもらったんだから、思い出せないはずはないのだ」 足をばたつかせる竹谷の股を割るように、後ろから男の膝が踏み出される。 竹谷は首を大きく左右に振る。恐怖から呼吸が荒くなってくる。 「そう。嫌なんだ。はっちゃんは、嫌なんだ」 男が確認するように繰り返す。それが合図だったように男が雁字搦めにしていた片腕を外して、男は自分の懐の中を探りはじめる。 「ぁ……は、ぁ」 「最後だからね、はっちゃん。最後に聞くから」 何を言っているのかまったく分からない。気が触れたような台詞ばかりを吐くこの男から距離をとりたくても、股下に踏み込まれた男の足が邪魔をして、足に全然力が入らなかった。 息をしているのか泣いているのか分からない声を漏らしながら竹谷がはなをすすっていると、首筋に感じたことのない痛みが走る。 「ぇ、」 生温かい―――なんだこれ、と竹谷が固まっていると、頬にカサッと糸が触れる。あ……違う。これは髪の毛だ。「あ、あッ……」 舐められてる。そう気づいたのは首からペチャペチャと奇妙な音がしはじめてから。怪我をしている身体は敏感なのか、人の弱いところを這っている舌に反応する。 自分が慰め者にされようとしていると竹谷はやっと気づく。 「い…ゃ、だ……っ」 声を出せば雷蔵に気づかれてこの無様な顔を見られるかもしれないと躊躇する。だが、強弱をつけて首筋に吸いつかれ、堪らなくなって竹谷は声を上げる。 「らいぞっ」 「いたい?」 「雷蔵ッ!!」 「いたい?」 「ら、」 「ねえはっちゃん。いたい?」 「―――ひッ!」 突然横から顎を掴まれて竹谷の声が引き攣る。男は黒髪の隙間から目を覗かせていた。その目は病院で見たことのないぐらいギラギラしている。そして竹谷の眼をしっかりと捉えて離さない。 顔を引き寄せられたことで男との距離が縮まった。覆い被さられて男の体温を背負うことになる。触れ合った背中がやけに熱い。「ぁ……」 竹谷が声も出せずに固まる。また男がきいてくる。 「いたい?」 瞬きすらしない男に恐怖して、何と答えれば男が許してくれるのかわからず、焦ってすぐにうなずいてしまう。 「は、はい……っ、はい……ッ」 「そっか」 呟きながら体重を浮かせる男。もしかしたら、と思い至る。 (怖がる姿が好きなのか……?) 竹谷が前屈みのまま背中の男の顔を見ていれば、段々と彼が姿勢を正していくではないか。 「ぁ…は、ぁ……ッ」 息を整えながら竹谷は遠ざかっていく男に安堵する。 これ以上身体を触られなくて良かった、と胸をなでおろしていた。 「雷蔵もくから大丈夫なのだ」 男が変なことを言いはじめる。 「……へ」 「また一緒に“居たい”んだろう」 「え、ちがっ―――」 「俺もはっちゃんと居たかったから。……あはっ。あははははは! 一緒だなっ、一緒だよ!! もうたくさん待ったもんな! ずっとはっちゃんに許可とってたから、嘘は無しだもんな、だっていま言った!! ぜったいに言った!」 「ぃ、ゃ……ち―――ちが、」 「ああそうだ! もうはっちゃんが逃げないように今ここでヤろうか。別にはっちゃんはハジメテが外でもかまわないもんな。あははは、昔さあ! 言ってたもんな!」 「なん、言ってな」 「相手の好みに合わせるって言ってた!」 「そ、そんなこと言って、」 「男に二言は無いって言ったの、八左ヱ門だろ?」 男が勢いよく顔を覗き込んでくる。竹谷の腰が抜けた。足がガクガクと震えている。 何を男が勘違いしているのかわからないけれど、今ここにいると、確実にヤられてしまう。殺されるそれとはちがう、この大人に身体を開かれてしまうのだ。 どうして男が竹谷と居たいのかなんてどうだっていい。 一昨日に問われたことが、“痛い”ではなくて、“居たい”だったという事実だってどうでも良い。 どこに連れて行かれるのかなんてこともどうだっていい。 「ぁ、ああ……っ」  見下ろしている男は―――久々知という大人は―――ヤるつもりなのだ。 この何処ともわからない幕の隙間で。いつ誰が来るともわからない床の上で。 ガチャガチャと嫌な音をたてながら久々知が自らのベルトを触りはじめる。その白くて長い指が尾錠のトップを弄っている。その光景がやけに生々しくて、竹谷は目が離せない。 ばたん、と音をたてて外れたベルトが久々知に投げ捨てられる。もうそれは必要ないといっているようだ。 久々知の黒眼が欲を孕んだように熱を帯びてこちらを見る。もしも視線に力があるならば竹谷はもうすでに犯されていると思う。 それぐらいギラギラとした眼をしながら久々知は、「はあ、はあ」と吐息を漏らし見下ろしてくる。 「はっちゃん。はっちゃん」 「ぁ……ッ、い、いやだ……いやだッ! 来るなッ!」 「そんな初な怖がり方をしても駄目だよ。したことあるだろう? はっちゃんはさ、気持ちイイこと大好きだから。心底腹が立つけど、今まで見つけられなかった俺が悪いよね。そうだよな」 「な、なに言ってんだよ……? そそそんな、ヤったことなんて、あの、そんな」 「心配しないではっちゃん。俺さあ、心広くなったから! 俺とのハジメテをここでシテくれたら許すのだ」 眼をそらさずにニタァと笑った久々知。到底許してくれるとは思えない形相で迫ってくる。 竹谷の焦りが大きくなる。この人はとてつもない勘違いをしている。それはおれじゃない。 「あ、あのッ」 勇気をふり絞って声をかける。 しゃがみこんで竹谷のベルトを外しかけていた久々知が、話しかけられたことにうっとりとする。そして、「なぁに。はっちゃん?」と幸せそうに声色を溶けさせて言う。 「おれ……あっあの、」 竹谷は心底恥ずかしかったが、言わざるを得ないと唇を噛んで決心する。 「ゃ……です、ッ」 「んー?」 羞恥心から声が出なくて久々知に聞き返される。 「だ、だ、から―――ヤったこと……っ、な、無いです…ッ」 こんなことならはじめから大きな声で言ったら良かった。二度も言わされる羽目になるとは、恥ずかしさも二倍だ。 なにが嬉しくて自分の童貞を明かしているのだろう。竹谷だってできることなら彼女とか欲しかったが雷蔵と遊んでばかりで女子が寄ってこなかったのだ。もともと女子の人数すら少ない田舎だ。遊ぶなら男友達と公園や山で……ともなれば必然的に彼女はできない。ならば義理堅い竹谷のことだ。恋仲でもない相手と性関係になる気にもなれずにいた。 それをこの久々知は知らないのだろう。 誰と勘違いしているのか、先程から押し倒されているが、とにかくそれは自分ではない。 まずこんなガタイの良い高校生を相手にする地点でおかしい。薄暗い幕間で見間違えているに違いない。 そういえばこの人に『はっちゃん』と呼ばれたことはない、と気づき確信する。 「へぇ……」 「ッは、ぃ」 探るように視線を向けられる。あまりにも熱心な目に居心地が悪くなり、股の間から覗く久々知の顔を見れない。竹谷は最後の審判を待つ気持ちで、視線を横に逸らし空中を見ていた。 「あははは」 突然久々知は笑い出す。 ぎくりとして思わず声の方を見る。そこで久々知はたいそう幸せそうな表情をしていた。 どうしてそんな顔をしている? なんで笑ってる?  なんで目がギラギラしたまま――― 「はっちゃんのハジメテをぜーっんぶ、もらえるのだぁ」 「ぇ……」 だからそれは勘違い―――そう問い返そうとした刹那。 身に纏っていたネクタイを緩める久々知の背後に影ができた。まだ久々知は気づいていない。 「ぁ、」 竹谷が反応しそこねて間抜けな面をする。すると影が『しーっ』と人差し指を立ててくる。 そして次の瞬間。影が右腕を振りかぶる。 「……っ!!」 「い゛ッ」 久々知の低く呻く声が聞こえた。 「―――すみません久々知先輩。竹谷先輩は三治郎にとって大切な先輩ですから」 影が久々知の背中で話す。 信じられないと久々知が目を見開いて倒れ込む。竹谷の膝のうえに意識のない人の重さが落ちてくる。 それを皮切りにして静寂が鼓膜を突く。 暫く誰も口を開けなかった。呆気なく動かなくなった医者を警戒している感じだった。 「う、上手くいった? 静脈に打ったし……」 やがて、影が人差し指を唇に当てながら自分自身に問いかけるように言った。 その声は可哀想なほど震えており、先程の台詞は虚勢を張っていただけのように竹谷は感じた。 「上出来だ。兵太夫」 影の後ろから誰かが言う。ぞろぞろと人が増えていく。ひとつ、ふたつ―――なにごとだと困惑していれば高校で見知った顔がいることに気づく。 「た、立花せんぱい?」 「久しいな竹谷」 顔を顰めているのは立花らしくない感情的な表情だ。いつになく冷静になれていない先輩の登場に混乱する。 「とりあえず」 立花が話しながら一歩近づいてくる。 床に座り込んで後ろ手をついていた竹谷は顔を上げ、立花の視線を追う。 「ベルトをしめろ」 「―――ぁ」 自分の姿を見下ろしてその“ヤってました”と言わんばかりの服の乱れように気づく。急いで竹谷は右手でベルトのバックルを引き寄せて、広く開けられていた胸元を引っ張って整える。 恥かしい姿をみられたことに頬を赤く染めて俯く。 するとカーテンの向こうがざわつく。 「ハチっ!」 「……雷蔵?」 聞き覚えのある声に顔を上げればそこに友人がいた。その後ろからは先程、雷蔵と話していたらしき男がついて来ている。 連鎖的に久々知に舐められたことを思い出してゾワッと身体が震える。 雷蔵は骨折した左手のせいで服さえ整えられていない悲惨な姿の竹谷を見てすべてを察したように呟く。 「―――兵助だね」 「……え?」 「いいんだよ。八左ヱ門はいいよ、思い出さなくて。大丈夫だよ。僕が思い出したから」 雷蔵が久々知と同じ“大丈夫”という台詞を言いながら近づいてくる。雷蔵の表情も声も柔らかく優しい。―――なのに反射的に身体が硬くなる。 そのことに気づいた雷蔵が心配そうに眉を寄せる。 「あ……わ、わりぃ」 「気にしないで。しょうがないことだから」 想像以上に根付いてしまった恐怖に、竹谷自身が一番驚いていた。

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