夜な夜な怪物
そいつはカランコロンとやって来る。 119か110番、どっちだったかな。 服のあわせを這う手に起こされて、水木は家の電話機までの道を思い出す。 階段を降りる音で母さんを起こすのは嫌だ。最近反抗期に入った水木には、背後の侵入者よりそっちの方がよっぽど問題だった。 この前の駅伝大会だって、着物はやめてくれって言ったのにやめてくれなかった。一人だけ浮いてたのが恥ずかしいのなんのって。しかも閉会式中に手なんか振ってきて、他の子たちに笑われた。だから思わず車の中で「ばばあ」なんてひどいことを言ってしまった。 オレだってもう三年生。そういう子ども扱いされると嫌になってくる。夜ご飯のカレーだって、もう辛口も食べられるのに、いつまでも甘口で、らっきょも大人しかダメとか言うし。 そんなことを考えていると、カレーで膨れた腹をひと撫でされた。おかわり沢山したからちょっと恥ずかしい。まん丸になってないかな。 どうやら後ろの侵入者はお気に召したらしく、何度もしつこく撫でている。 いい加減寝たふりをするのも疲れてきたし、早く助けを呼ばないとだよな。それにトイレにも行きたくなってきた。寝る前のコーラってあんまり良くない。 (お?) 大きな手がズボンのゴムを引っ張って隙間ができる。 なんだこの人、変態じゃん。 小学校近くのガソリンスタンドで全裸にタトゥーを入れた変質者が叫んでいたから気をつけろ、と先生たちが言っていたのを思い出す。 この人だったりするのか。 どうする、やっぱり119か110番した方がいいか? 頭の中で話し合っているうちにパンツのゴムを引っ張られる。さすがの水木も睡眠欲より、口を動かすことを選んだ。 「そこはやめろよ、変態」 ここで夢は終わった。 3年生の教室にある本棚の中で一番人気は、妖怪図鑑シリーズだ。 強さを星の数であらわしたり、妖怪同士のバトルの様子を描いたりと、読むだけでなんだか面白い。怖い本が苦手な子でも読めるところも魅力的。誰かが返したらすぐに借りに行くか、もしくは前もって予約しておかないと読むことができないほどだった。 全部で二冊あるうちの一つは破れちゃって修理中だと聞いたから、残りの一冊の持ち主である沙代に声をかけた。 「沙代さんの本に、人型の妖怪とか載ってないか?」 「人型ですか?」 某アニメの青狸の言い方を真似て“人型”と小難しい言い方をしてみたが、沙代はピンとこなかったらしく、水木は言い直した。 「人みたいなやつ」 「ありましたよ、いくつか」 机の横にかけていた手さげから図鑑を取り出し、パラパラとめくって見せてくれる。どれも人のようなものではあるが、顔は人ではなかったり、夜に現れるものじゃなかったりと、若干惜しかった。 どうかしたのですかと心配そうにたずねる沙代に、短く事情を説明した。 「夢の中でズボンを脱がされるんだ」 「それは…妖怪?」 確かに、妖怪かどうかすら怪しい。 「分からなくなっちまった。困ったなァ」 「お言葉ですが水木さん、ちゃんと蛇神様・・・のお供えはされましたか?」 沙代の言葉に、水木の目が泳ぐ。 そういえば何か学校で言われていたっけな。この町の風習だったはず。面倒すぎてあまりちゃんと聞いていなかった。 蛇神様がなんたるかを聞き逃したせいで具体的な天罰はわからないが、少なからず、お供物をした沙代の家は無事で、お供物をしなかった水木の家で異変が起こっているなら、明らかにその蛇神様とやらに原因がある。 水木は恥をしのんで、蛇神様のお供えの作法について沙代に教えてもらった。 いわく、これは2月9日にしなければならないということ。 いわく、当日までに蛇神様のための炭を山に取りにいかなければならないということ。 「その炭を家の周りの四角に、山のように盛る。それだけで良いのです」 「9日って昨日じゃないか」 「だからそう言ってるではありませんか」 やり方は至ってシンプルだ。炭さえあればものの五分もかからない。ただ問題なのは、その炭を取り扱っている山の人がすでに今年の炭の販売をやめたこと、そして日付を越してしまったことにある。 日付なんか、一年先まで待たなければならない。それまで毎日よく分からない存在にズボンを脱がされたり、寝るのを邪魔されたりしないといけないのか? そんなん我慢できない! 「なんとかならないか?」 「水木さんがちゃんとお供えしていたら良かったと思います」 「それはごもっとも」 しかし水木だって引き下がれない。沙代にその後もしつこく相談していると、そのうち彼女の従兄弟が覗きに来た。 「妖怪ポストを使うっていうのはどうかな?」 「そんなものがあるのか、時弥くん」 「困ったときに手紙を入れたら、どこからともなくカランコロンと音がして助けに来てくれるんだって!」 「時ちゃん、まだそんなうわさ話を信じているの?」 恥ずかしいから言いふらさないでと止める沙代に、時也は首を振る。 「僕のクラスじゃその噂で持ちきりだよ!七不思議よりも本当だって、みんな言ってるもん」 「もしそうだとしても、相手は蛇神様よ。妖怪と神様じゃ話が違うんじゃないのかしら」 正論を言う沙代に言い返せない時弥を見かねて「ありがとう時弥くん、出してみるよ」と割って入る。 味方が増えたことが嬉しいのか時弥は、「お手紙書くときは言ってね、国語で練習したから書けるよ」と自信満々に言って教室に戻っていった。 「ごめんなさい、時ちゃんが今ハマってるものだから」 「んーん。気にするな」 正直なところ、水木は妖怪ポストのことを、これっぽっちも信じちゃいなかった。そんな存在するかどうかも分からないポストを探す気はなかったし、時間の無駄だとすら考えていた。 ただ折角教えてくれた時弥に悪いという思いはあって、とりあえず形だけでも書いておくかと、自由帳を取り出して鉛筆で下書きを始めた。チャイムが鳴るまでの間にちょちょいと済ませてしまえば、昼休みの時間にやってきた時弥は「ここはこうした方がいいね!」と自慢げに教えてくれた。可愛い低学年の指導に、水木は素直に書き直す。 やっと完成した。 もしかして本当に届くのか? そんな気持ちになってきた。 「相手の名前は、ゲゲゲの鬼太郎へ、だよ」 水木は名前を聞いて噴き出した。 「なんだその名前」 鬼太郎も面白いが、そのまえのゲゲゲの効果音も中々ツボだ。誰かが驚いたような言い方を取ってつけたような名前は、水木の胸にしっかり残った。 いっとう綺麗な文字で『ゲゲゲの鬼太郎』と書いて、これで今度こそ完成だ。 放課後になって家にランドセルを置いた水木は、待ち合わせをしていた公園に自電車で向かった。 滑り台と鉄棒しかないそこは子どもたちには不人気で、待ち合わせにちょうどよかった。どうも最近二人でいると「付き合ってるの?」ときいてくるお節介な五年生がいるのだ。付き合うとかそういうことに何でなるのだろう、と水木は面倒臭くなって、人気のない場所を選ぶようになった。 近所の犬が野ションをしたと噂のあるブランコを避けて、隣のブランコに乗って漕いでいると、二人がやってきた。 「ポストあるかな?」 言い出しっぺの時弥がいう。 あれほど小学校では大丈夫と言っていたわりに、なんと心許ない台詞。 「とりあえず、ありそうなところ探そうか」 ありそうな場所とはどこだ。 水木自身分からないままに公園の周りの家の隙間を覗いていると、案外すんなりと見つかった。田中さんの家のとなり。木でできた三角屋根の小さいポスト。不自然に道の真ん中にあった。今まで何度も遊んだことのある路地裏なのに、一度も見かけたことがなかった。 初めて見た妖怪ポストに大興奮の時弥。沙代ですら、両手を合わせて目を輝かせていた。 「出してみよう」 持ってきていた手紙を取り出して、水木がそっと投函した。かさっと落ちる音が妙に響く。他に何も入ってなさそうだ。 「来てくれるかな、ゲゲゲの鬼太郎」 「お客さんがいなかったらすぐに来てくれるさ」 他の客とはなんぞや。 水木は自分の発言に笑いそうになる。 何も解決していないのに大仕事を終えたような気持ちになって、水木は頭の後ろで手を組んだ。ちょうど小腹が空いてきた。 自転車を置いていた場所に戻ると、駄菓子屋まで行ってお菓子でも食べようという話になり、三人は仲良くガムとアイスと飴を買った。 「まだ寒いのに良いのでしょうか」 悩む沙代を宥めて、お揃いのソーダアイスを食べた。 水木はアイスの棒を何度もひっくり返して当たりを探したが、何の刻印もないことに肩を落とした。甘さの残る棒にしゃぶりつきながら、時々吹いてくる冷たい北風に背筋がぞわぞわとした。やっぱりまだ寒いよなと、冷える自分の肩を抱き締めた。 その日の夜もまた同じ夢を見た。 背中から伸びてきた手は、一目散に水木の手に重ねられた。そのままパンツのゴムを下ろそうとしてくるので、水木も応戦した。股に力を入れて脱げないようにしたり、身体を丸めたり、できる限りの対策はとった。しかし相手の方が上手だった。 前から下ろすのが困難なら、背中から下ろせば良い。 「うおっ」 背中に入り込んできた手によって、水木の大きめでまろやかなお尻がパンツから見えてしまったのだ。 「クソッ…無念」 水木はなぜか負けた気分になりながらそのまま意識をシャットアウトした。 その日学んだことは、ズボン下ろしではなくパンツ下ろしだということだ。 突然だが、水木少年の左目あたりには傷がある。 どうってことはない幼少期の怪我だ。 乳児用のピコピコ鳴る椅子に座ったご機嫌な水木くん(1歳)が足でぐらぐらと揺らして遊んでいるとき、勢い余って後ろの棚にぶつかってしまった。運悪くガラス張りの引き戸だったので、頭と耳がガラスを突き破って血が出たのだ。すぐに病院に行ったのと傷が深くなかったのとで、幸い大事には至らなかった。 今や水木の顔と耳に残るのは、鉛筆で書いたのような細さの傷痕ではあるが、なんとなく餓鬼の頃の失態を知られたくなくて前髪を流していた。 ところで、おたくの左目には何かお住まいで? 水木は先ほどからずっとそう聞きたくてソワソワしていた。茶色い髪の隙間が時折あきらかに、意思を持って動いているからだ。 「−−水木くん?」 「うぉ。おお、ごめん」 「はぁあ」 このやりとりももう三回目だ。いい加減にしてください、と呆れた目で見られるのにもそろそろ慣れてきた。 今日は待ちに待った土曜日。 夕方まで友達と校庭でたっぷり遊んだ。その帰り道、突然の通り雨に降られて、水木は慌てて自転車を走らせた。 5分ほど走ると、昨日の公園の前を通りかかる。流石にこれでは風邪をひくと思って、自転車を公園の入り口にとめた。 公園には大きなどんぐりの木が一つだけある。その下で雨宿りをした。これはまた母さんに怒られるなと腕で顔を拭った。 カランコロン。 どこからともなく音がする。 雨で張り付く前髪のせいで顔を上げられずにいても、その音はなぜか響く。ザーザーと煩わしい雨音の中でも。「こんにちは」 気がつくとブランコの前に子どもが立っていた。高学年だろうか、水木よりも少し背が高い。青い服に半ズボン。時代劇に出てきそうな下駄を履いて大きな傘をさしていた。 「−−もういいよ、ありがとう唐傘」 傘から手を離すとソレは勝手にケンケンをして、公園の入り口から出て行った。 「すっげえ…」 「君が水木くん?」 男の子がどんぐりの木の下に入ってくる。 水木は名前を呼ばれたことに驚いたが、こいつがあのゲゲゲの鬼太郎かと思い至った。想像していたよりも普通の子どもだったことに肩透かしをくらう。 手紙に一度書いていたので、ざっくりと例の夢のことを話してから、 「で、神様のことでも助けてくれるわけ?」 と付け足した。 鬼太郎・・・は視線を水木から逸らしながら「蛇神がそんな無茶をするとは思えないけど」と呟いた。 じゃあなにが原因なんだよと聞き返そうとして、鬼太郎の左目を覆った髪が揺れていることに気がつく。風なんか吹いていないというのに。小動物が前足で草をかき分けた時のようなそんな感じだった。 水木はそれが気になって仕方なかった。 チラチラとそれを見ていたが、鬼太郎に何度も呆れられるので流石に視線をやるのを止めた。 「とりあえず探ってみるよ。君は今まで通り、家で過ごしてもらえるかな」 「おう」 「……水木くんは今誰と住んでる?」 木を見上げる鬼太郎。 変な質問と水木は思ったが答える。 「母さんと父さん。最近母さんとはよく喧嘩する、けど嫌いじゃないよ」 「そっか。仲良しで良かった」 「だから喧嘩するんだって言っただろ?」 ムスッとして言い返す。 鬼太郎は口の端を上げていた。 鬼太郎が木から出るとタイミングよく雨が上がった。水溜まりを下駄で踏んでいく姿は、なんとなくドラマを見ているみたいだ。 水木が自転車のところに行くと、既に鬼太郎の姿は無くなっていた。 「ただいま〜」 玄関に入った瞬間、揚げ物の温かい匂いがした。 そういえば豚カツが食べたいって自分が言ったんだっけ。 リビングに入ると、靴下を脱ぐように叱られた。 「あら、ビショビショじゃない!またこの子は傘も持たずに!」 「自転車で傘させるわけないだろ!」 やっぱり母さんは一言多いし声がでかい。分かってることだって、言われてからやらされるのだと腹が立つというのに。水木は無視をして脱衣所に向かおうとした。 しかし不意に鬼太郎が言っていたことを思い出した。 たまらなくなった水木は振り返って、母さんに小さな声で「豚カツ…ありがと」とだけ言って、脱衣所までダッシュで向かった。 母さんの作る揚げ物は、不思議なぐらい旨い。 冷めていても、温め直してもご飯に合う。豚カツはもちろんのこと、チーズを豚肉で巻いてそのうえに紫蘇を挟んで最後に豚肉で巻いたのも絶品だ。サツマイモも海老もなんでも旨い。 「茗荷みょうがとたらの芽は大人の味ね」 母さんがビールを流し込みながら笑う。眼鏡のしたの頬が赤いのを見るに酔ってきている。 大人の味と聞けば水木だって我慢できず、こっそりと自分の皿に取った。大人ということは苦いのかもしれない。ソースで味をごまかそうと企んだ。「あれ」そこで気がつく。 「ソースねえじゃん」 「冷蔵庫にあるわよ」 しかし探しても、野菜室にもない。 「父さんに買ってきてもらおっか」 スマホで母さんが連絡を入れているうちに水木は天麩羅を食べようとして、箸が止まった。 茗荷がない。さっきまであったのに。 これはまた母さんの仕業だな。間違いない。オレにはまだ早いとかいってとったんだ! 「誰が取るのよ。こんなにまだ沢山あるのに」 指の先にある皿には、茗荷もタラの芽も山盛りになっていた。 「オレの皿にあった茗荷がないんだよ!」 「だから知らないって」 そんなの言い訳にしかならない。水木は鼻息を荒くしてもう一つ取ろうとするが、なぜかするりと箸から滑り落ちた。油で滑っているのかと疑うぐらい。何度か挑戦をしてやっとのことで皿に移したが、目をほんの少し離した隙に茗荷が無くなる。 水木もさすがに、母がここまでやるとは思わなかった。 「なんか嫌われてる気がする」 水木がぼそっと言うと、母さんがン〜?と何かを思い出すように言った。 「そういえば、茗荷を食べると忘れん坊になるって、昔おばあちゃんが言ってたわね」 「なんか胡散臭いなァ」 「まあ言い伝えだしね。でももしかしたら誰か、貴方に忘れてほしくないものが、食べないで〜って邪魔してるのかもしれないわね」 クスクスと母さんが笑う。 水木はそれを聞き流しながら、冷めはじめた味噌汁を啜った。具材のサツマイモとちくわは天麩羅の残りだな。母さんに言うと、 「バレたか」 と笑っていた。 月曜日。 いわゆる建国記念日だ。 「結果からいうと蛇神じゃありませんでした」 蟻の行列を眺める水木の隣。 同じように鬼太郎はしゃがみ込んで眺めていたが、ふと思い出したように言った。ついさっきまで「なに運んでます?」「金柑のかけら。やったら群れてきた」「ふーん、気持ちワル」「こら。一生懸命生きてるんだからそれはないだろ」「でも気持ち悪いですよね」と会話していたのに。 そのまま指で蟻の進路を邪魔して遊んでいたが、不意に鬼太郎が人差し指でプチっと蟻を潰した。 「何やってんだ!」 地面に蟻の死骸を擦りつける腕を、水木がパチンと叩く。 「僕は悪い子ですか?」 「ムダに殺しちゃ、そりゃダメだろ。見てるこっちが嫌な気持ちになる」 「だったら止めます」 「よろしい」なんだこの会話と思ったが、さっきの蛇神様の話を思い出して、水木は鬼太郎の方に膝を向けた。 「蛇神様の呪いじゃなかったのか」 「ええまったく。むしろこの地域に蛇神は居ませんよ。元々あったこの地域の言い伝えは、灰を家の外に置いて蛇が来ないようにするってやつみたいですね。それがいつしか形の無い神を祀るようになって、変な行事が残ってしまったということで間違いなさそうです」 「なんだ、そうか」 水木は胸を撫で下ろしたがすぐ、それなら昨晩の手はなんだったんだと返す。 「またパンツ脱してきたぞ。あれは何なんだよ?」 「パンツ…」 鬼太郎はそう呟いたまま鼻血を出した。 うわっなんだ、体調でも悪いのかとポケットから出したティッシュを渡す。 「水木さんのパンツ」 とまだ呟いている。いつしか君くん付けじゃ無くなってるし、なんだよいきなり他人行儀な。口の端も上がっていて馬鹿にされた気がする。 水木はブスッとして、 「神様じゃなかったらどうにかしてくれるんだろ、鬼太郎さんよ」 と図書館の手すりに飛び乗った。身を屈めた鬼太郎とちょうど目の高さが重なった。 「他に心当たりとかありませんか」 「あったら苦労しねえよ」 振り上げた足で紫陽花を蹴散らす。先生が見たら怒りそうだが、幸いにもここは小学校じゃない。 図書館の周りに人の気配はなかった。月曜日は休館日だから、余程の用事がなければ誰も来ない。 「本当に不審者が入り込んでるとか?」 「オレもそう思って、鍵ちゃんとかけて寝たけど、何にも変わらない。それに朝起きたら普通にパンツはいてるんだぞ、信じられるか?」 「おかしな話ですねェ」 青色の紫陽花をもう一度蹴った。勢いをつけて飛び降りて「小学校行ってみる?」と言う。 何かヒントがあるかもしれない。学校は週の大半を過ごす場所なんだし、見ておいて損はないだろう。 小学校の駐車場に車が一台もとまっていない。ラッキーだ。あたりを見渡しながら児童玄関に駆け寄った。気分はスパイだ。 当たり前だが鍵は開いていない。引いても押しても動かないドアを前に、中を覗くことしかできない。 水木が悩んでいると鬼太郎は口笛を吹いて言った。 「こんなもんはね、セキュリティがなんだって人間は言うんでしょうけど、鍵ぐらいならチョチョイって感じですよ」 場所を鬼太郎に譲ってやると、ドアの隙間に頭を近づけはじめた。どうするのだろうと思っているうちに、ニョキニョキと髪が伸び始める。 「えっキモ!」 「そんなこと言わないでくださいヨ、傷付くなぁ」 「な、なんかすまん」 意志を持ったように髪の毛が折れる。水木は慌てて謝った。 機嫌を良くした毛先はドアの隙間に滑り込み、こちょこちょと踊ってみせた。すると程なくしてガチャリと音がした。 「すごいな!」 「幽霊族たるもの、これぐらいできないと」 「あんた妖怪じゃなかったのか」 水木が驚いていると、鬼太郎はにっこりと笑ってドアを開けた。 傘立てをすり抜けて、下駄箱に向かう。三年一組のところから上靴を取り出してはくと、鬼太郎には下の段にあった来客用のスリッパを出した。 「僕、むかし三年五組だったんですよ」 「あんたも小学校通ってたのか?」 「ええ。随分と昔になりますけどね」 幽霊って学校に通うんだな。感心している水木に気がついたのか、鬼太郎が訂正した。 「幽霊族は生まれた時から幽霊族ですヨ。人間が生まれるよりもずっと前から」 「ふーん」 歴史がよく分からない水木は生返事をしながら、階段を上がる。低学年は下で、それ以上になると上の階だ。鬼太郎は五組だと言っていたが、今は子どもの数も減って三組までしかない。その中でも一組は階段に近いので、水木はこの教室を気に入っていた。 「特に何の妖気も感じませんね。妖怪がいたら髪の毛が立つんですけど」 「そいつはすげぇな、見てみたかった」 「そんなに期待されちゃア、やる気が出ますね」 鬼太郎が唇を尖らせる。気になっていたが、こいつさては機嫌が良い時はあひる口をする癖があるな。水木は横目で見ていた。 「水木さん、これはなんですか?」 鬼太郎が後ろの掲示板に貼っていたプリントを指差す。手紙を読めるぐらいなのだから、文字も読めるはずだろうに。 「校外学習のお知らせだ。来週の木曜日、隣町に桜をみに行くんだ」 「さくら……早いですね」 「早咲きの桜だとかって言ってたな」 桜なら校門のところの並木道にあるだろうに、なんでわざわざ観に行くんだって文句を言う子もいた。現に水木も花には興味がなかったし、とくに桜は毛虫が落ちてくるから好きじゃなかった。 それでも校外学習の行き先が変更されるわけではない。そうそうに諦めた水木は、桜のあとの科学館でのお弁当を楽しみにしていた。 「ふーん、そういうことかア」 前髪をいじっていた鬼太郎がぶつぶつと呟く。 なにか分かったのか。水木が彼の正面に立つと、前髪の隙間が揺れた気がした。−−まただ。 「ひとつ提案があります」 「なんだ」 「耳を貸してください」 鬼太郎に言われたとおり、水木は左耳を傾けた。 なんとなく耳の古傷が痛んだが今はそれどころじゃないと、気がつかないふりをした。 服の合わせを引っ掻かれる。 いつしか手馴染み(そんな言葉はないだろうな)になったソイツは、水木の胸から腹をつたって最後はズボンにたどり着いた。今晩もおそらく下着まで脱がせるつもりだろう。 いつもの水木ならここで抵抗やら奮闘をするのだが、今回は違った。鬼太郎に事前に言われていたからだ。 『何があっても抵抗しないでください』 パンツを差し出せと言うのか!馬鹿野郎!オレのパンツだって安くないんだぞ! 水木は怒ったが鬼太郎はどうしてもと言った。ふざけたり冗談ではない、真剣な眼差しだった。 そのうち鬼太郎の視線に負けた水木が頷くことになった。 大きな手がズボンの中まで入ってきて、ふにふにとパンツの前を揉まれるとやっぱり気持ち悪くて、 (鬼太郎、次会ったら、シバク) と呪文のように心の中で呟く。 膝まで下ろされたズボンがいよいよ引き抜かれて、パンツにも手がかかった。布団との間に挟まって下ろしにくかったのか、パンツが膝裏に引っ掛かった。水木は迷ったが早く終わらせたくて、足を自分から少し浮かせて手伝った。 水木の下半身が寒くなる。おちんちんが敷き布団に引っ付く感じも気持ち悪くて、我慢できず体を丸めて待った。 しかし待てど暮らせど、動きがない。 さっきまであんなに活動的だった手がいなくなったので、水木はどこに行ったのだろうと暗闇で探した。明かりがひとつもない部屋。スマホを持たせてもらっていない水木は、頭元にあったゲーム機の電源をつけてあたりを照らした。 (うおっ) ベッドに大人が横たわっていた。 水木は驚いて思わず声を出しそうになり、口を押さえた。昔の服のようなものを着て、その胸に水木のズボンとパンツを大事そうに抱いている。髪色は白い。おじいさんかと一瞬思ったが、顔を照らすと、鼻筋の通った綺麗な顔の男だった。目元が少し赤いのはなぜだろう。すうすうと胸を動かしているわりには、呼吸の音がしなかった。 それは静かな幽霊・・だった。 鬼太郎が言っていたことは、正しかったと言うことだ。 水木は手で男の頭を撫でた。そしてあやすように小さな声で話しかけた。 「桜は見に行かねえから、おやすみ」 何度も頭を撫でていると男の体が透けていく。そしてあとに残ったのは水木の衣服だけだった。 「昔、泣き虫な妖怪がいたんだ」 次の日会った鬼太郎は水木のことを公園で待っていた。何となくここにいる気がした水木は、ランドセルを下ろしてすぐに向かった。 「その妖怪には離れてほしくない人間がいて、それはもう、どうやったら一緒にいてくれるか何年も悩んでいた。ほら、人間って下半身を露出したまま外に出ることが出来ないだろう?」 「警察に捕まるからな」 「だから隠したかったんだよ。水木くんに一緒にいてほしくて」 「うーん」 水木は鉄棒に顎を乗せたまま、釈然としない顔をして唸った。あれは妖怪というより人に見えたのだが、そういう妖怪もいるのだろうか。鬼太郎が知っているぐらいなのだから、幽霊族の誰かという可能性もあるんじゃないか。 鬼太郎にたずねる。 「本当に妖怪なのか?」 「さあ?」 「幽霊族は他にもいないのか?」 鬼太郎はクスクスと笑ってひたいを引っ掻いた。前髪がゆらゆらと揺れる。やはりそこには何か、白いものがいるような気がした。 その日、職員室は来週に控えた参観日の準備で忙しかった。 タイムテーブルを拡大して来客用玄関に貼り出す教頭も、駐車場の白線の下書きをしに行った事務員も、誰も彼もが落ち着かない。それも仕方がない。今年度最後の参観日なのだから。 三年一組の担任である滝村たきむらは、やっとのことで板書計画を立てて職員室に戻ってきた。あとはプリントの印刷をするだけだ。 ほっとしたついでに、となりでテストの採点をしていた後輩の木南きみなみに声をかける。 「木南先生は参観日に何をします?」 「お疲れ様です、滝村先生。今回は道徳やってみようかなと思ってて」 「お〜頑張りますね」 滝村が唸るのも無理はない。道徳ほどイレギュラーな発言が多く、教師側の準備がしづらい授業は無いからだ。主題が決まっていても子どもたちの中からその意見が出なければ、ただの感想発表会になってしまう。 まだ二年目の木南が道徳を参観日に選ぶ、その度胸が素晴らしいと感心したのだ。 「うちのクラス、時弥くんがいるから、途中で話が脱線しかけても戻してくれると思うんです」 「なるほど、時弥くんか。クラスにああいう子が一人いると心強いですね」 キーパーソンというのだろうか、そういう中心になる児童がしっかりしているとまとまりやすくなる。特に道徳における時弥の達観した意見は、大人の予想している児童の発言よりさらに深みがある。 ただその反面、時弥には不思議なところもあった。 「たまーにあの子、学校の前にある歩道橋を見て、“白いのが跳ねてるよ“って言うんです。そのせいで歩道橋を登校に使ってる集落の子が怯えちゃって。悪気があるわけじゃないってわかるんですけど、他にも変なこと言うことがあるし……それさえ無ければ、もっと嬉しいんですけど…」 「まあまあ、子どもは見やすいって言うじゃないですか。それにあの子の父親、たしかそういう関係の仕事だった覚えがありますよ」 「血は争えないってやつですかね」 滝村がなだめると、木南はパソコンにテストの点数を入力し始めた。作業の合間に「滝村先生の三年一組は元気ですか?」と聞き返される。 「うちは相変わらず元気だよ。授業中にいきなりイチョウの葉っぱ切りはじめるわ、ノートを糊でくっつけて遊ぶわ、妖怪の本をみんなで取り合うわ。お前らは動物園かって何度怒鳴ったか!」 「楽しそうですね」 「どこがだ!」 滝村が頭を抱え込むと、木南が「前に言ってたあの子は元気になったんですか?」とたずねた。 「水木か?」 「そうです、その子。今までずっと皆勤賞だったのに、校外学習の日にわざわざ熱が出たって。それこそ時弥くんが水木くんのこと大好きだから、心配してましたよ」 「水木は熱じゃなかったそうだ。親御さんに後で電話して聞いてみたら、腹が痛いから布団から出たくないって珍しく渋ったらしい」 学校で何か嫌なことがあったのかと滝村も心配して、翌日登校した水木に聞いたのだが、その頃には本人も清々しい顔をしていた。 「もう元気ですって笑顔で答えられたら、こっちも何も聞けないしな。現にあれから水木は一度も休んでないし、他の友達ともよく遊ぶ」 「もともと人気者ですもんね」 元気なら別にそれで良い。進級まであと1ヶ月を切った。このまま何事もなく次の学年につなげられたら、それだけで良かった。 だが小学校は人の念がこもりやすい場所である。 招かざる客も、知らず知らずのうちに入り込んでいるということを、大人たちは知らなかった。 おしまい
お気づきの方もおられるかもしれませんが、日によって現れる彼は入れ替わっています。水木は気づくでしょうか?