難解な生徒の口説き方。
「……まだ居たんだ」 「ぁ、えっと、はい」 突然ドアが動くもんだから驚いて、そんなありきたりな返事しかできなかった。もし仮に足音なんて聞こえてたんならもっと上手な返事ができただろうに、だとか遅い後悔をする。 面倒なことを嫌うこの先生がなんで教室に戻って来たのか疑問だけど、きっとすぐにまた職員室に戻っちゃうだろうなってことは予想がついた。 ドアをくぐる時に身を屈めないといけないほど身長が高い月島は眠そうに目を細めて、教卓を目指してすたすた歩く。山口はそれをボーっとして見ていたが、視線が鉢合わせすると言い訳ができないことに気づいて逸らす。 テスト勉強用のノートはまだサラだった。 「……ぅ」 またわからない問題に直面した。シャーペンの先が空を切ったまま停止する。 つい先日返却されたテストが思わしくない点数を叩きだした。 特進クラスどうこうというよかこの高校自体が進学校のため、テストというものが応用が効いた難しいものだ。そのせいで、ちょっとやそっとの勉強では解けない。 教科書なんか当てにならないよ―――と言ったのは担任の月島だった。それもニタ~という嫌な効果音付き。まあ数少ない月島の微笑だったし、クラスの女子は喜んで受け入れていたのだけど。 確かに教科書は当てにならないと思う。だってテストに出される内容が東大だったり慶応だったりの過去問を取り入れたものだったりするし、酷いときは外国の論文から抜粋したものだったこともある。特に月島の担当する化学が今回酷かった。そのせいでこうして居残りをしては、次に備える羽目になった。 テストはまず問題文からおかしい。だって言語が日本語じゃなくて英語だし。それも注さえ付いてないような文、まずそこから進まない。 山口は英語が苦手だった。 問題が読めないようじゃ解答できるはずもない。一問目にすら移れなくて、どんなもんかな~と山口は教室の一番前の席を揺らしていた。 元をたどれば英語ができないのに、できることありきにテスト問題が作られたせいだ思うと、『月島先生めっ!』と逆恨みしてしまった。山口が、くっそー! と黒板上のスピーカを見上げた時。 月島が教室のドアを揺らしたのだ。 なんとも気まずいと感じてしまうのは致し方ない。 「君みたいにみんな残って勉強するぐらいの気力、見せればいいのに」 「は、はは……俺も進んでないのであんまり言えないっていうか……」 「そこは努力しなよ」 全くもって彼らしくない言葉で言ってくれたもんだ。 山口は苦笑いを浮かべた。努力、だの、一生懸命、だのおおよそ月島が言いそうもない暑っ苦しい言葉。それを彼自ら吐いたことに対して、下手に返事をすることができない山口はやはり笑って誤魔化した。もしかして気だるげな月島なりのジョークだったのかもしれない。最高に伝わりにくい冗談だったけど。 ふと教壇に手を突っ込んだ月島が何かを取り出す。赤色をしたそれは塵取りだ、新品なのか光っている。 一体どうしてそこに入っていたのか―――それを訊ねるより先に月島が顔をチラッと動かして、視線がかち合う。ギクッとなる間もなく話しかけられた。 「窓ぐらい開けときなって」 「え、ごめんなさい?」 「謝るな山口。めんどい……」 言いながら月島は猫のように静かな足音で歩いて、黒板の隣に立てかけたあった箒を右手で取った。なにをするんだろう……まさか掃除? と山口が悶々と考えていると、また視線が合いかける。咄嗟に顔を下げてノートに向けた。教室に気まずい空気が流れる。 いや、そう感じるのはきっと山口だけなんだ。 サッサッと箒の音をさせる月島は至った冷静だ。焦った様子もなく掃除を始めているのだから、気まずさなんて微塵も感じていないのだろう。 (いっつもだ) 厳しいというか冷たいというか―――それが月島先生に対する生徒全体の印象だった。 時にはその容姿の美人さに目を引かれて『あたし先生の彼女、狙おっかな?』と言い出す女子もいたが、大抵の生徒はその名の通り月のようにひんやりとした人柄に恐れ戦いて、先生と一線を画していた。 月島の授業では事前に教科書を読んでおくことが必須だ。月島は読んでこなかった生徒に対しては容赦のない扱いをするのだから、そりゃ怖いだろうなというのが山口の感想だった。 怒るわけでも叱るわけでもないのに怖く感じる、月島の授業は化学が苦手な生徒にとって地獄の時間だ。そのせいか化学が苦手になった者は多い。かくいう山口もその口だった。もとから日本史だの世界史だのという暗記教科が得意だった山口からしてみれば、理論がすべてな数学的教科はちんぷんかんぷん……。 そのくせして何故か山口は、こう呼ばれていた。 『月島先生のお気に入り』 つまり読んで字のごとく、気に入られているということだ。 授業中の月島はHRのときよりも簡潔で、すがすがしいほど素っ気無い。予習が当然の授業の中で今さらな説明を省いた結果だから、当たり前ともいえるのだけど……。それにしても、素っ気無い。 まるで猫みたい、いや爬虫類の肌みたいだね! とは谷地さんの台詞である。 それが極稀に異なる場合があるのだ。 ……山口と会話するときだった。 普通生徒が突然の問い掛けに答えられないと、「はあ? 君本当に予習してきたの……もういいよ座って」と呆れたように言う。 それが山口に初めて当たったときのこと。あまりに挙動不審で震えていた山口にクラスメートたちは、これはやばいと焦った。なんせ面倒なことが嫌いな月島なのだから。何の反応も返ってこないのは一番時間が無駄になることであって、山口のその行動は自ら不機嫌にしに行くようなものだろう、と予測がついたからだ。クラス中が、 『いいから早く謝れっ、そんで座れ……!』 と心の中で応援していた時だ。 月島はため息を吐いて言った。 「取って喰わないよ山口、安心して。落ち着きなよ」 「ぇ……?」 「座っていいよ」 たかがそれだけだ。 いや、むしろそれだけだったのだ。 呆れたようにと言うよりは可哀想だというため息を吐いて、座らせた。素っ気無いながらもちゃんと生徒のことを考えた台詞……それがどんなに珍しいことか、月島の言葉終わりにざわめいたクラスから予想はつくことだろう。 そんな事件(生徒達からすれば大袈裟ではない)から、ずっと月島は授業中に当てるだけでなく、 「ちょうどいいところに山口いるね。推薦組の城田と安川……あと谷地、呼んできて」 と職員室で用事があった山口をわざわざ遠くから呼んだり、 「ふーん、ちゃんと掃除してるんだ。偉いじゃん山口クン」 そう掃除中にトイレにまで様子を見に来たりした。 これはおかしいぐらいに気に掛けられている、とは流石の山口でも気づいた。 ついには月島の彼女の座狙いの女子生徒にすら、「山口と中身入れ代わりたい……いや立場だけでもいいから、本気で代わりたい!」と文句を言われる始末。いや俺も代わってほしいんだけど―――と言ったら終わりだとわかっているので、そこまでは言わないが。 それから時間が経つと今度は砕けた態度になって来た。もちろん月島がだ。 これには流石のクラスメートたちも憐みの目を向けた。主に、雑用扱いだねご愁傷さまといった意味で。いや違わないんだけど別に俺は手伝ってるだけで雑用じゃない! と山口は思っているが時々本当に不安になって、『俺パシられてるのかな?』と気にしていると月島は、山口の露わになった額を日誌でぺしんっと良い音をたてて叩き言った。 「裏の学級委員長みたいなもんだよ。授業が円滑に進むための……的な?」 そう言われてすぐにやる気がアップした山口は、やはり山口だった。うん自分が一番よく分かってる。単純だってことは、でも仕方ないじゃないか。この歳になって褒められることなんてそうそうないんだし。 とはいってもやっぱり少しは山口も気にするもので、月島の異様な自分への懐きよう? 甘さ? は何からくるものなのか。悪い気はしないものの周囲からの不思議がる視線に軽く面倒になっていた。おそらく月島だって山口を少なからず嫌ってはいないはずなんだけど、かといって勉強ができて将来有望だから期待してる! ってわけでもなさそうなのが不思議だった。 確かに山口は頑張り屋さんだ。 間違えた問題は丁寧に解き直すし、分かろうという努力はする。解けた友人に解き方を聞きに行くしときには先生のところにも行く。でもそれは進学校の風潮として当たり前のことだ。山口だから~というよか、学校全体の作りがそうだからというところが大きかった。……ではなぜ? わからなかった。 そのせいで未だに変な緊張感が山口の中にはあった。対月島先生という緊張感が。 それをいざ知らず、掃除を始めてしまった月島は箒を忙しなく動かす。そのたびに山口は上履きを擦り合わせ、居心地が悪そうに身を縮こまらせるのだった。 そういえば月島は掃除が大好きだ。先生が自分でそう公言している訳ではないのだが、クラスメート含め学校で化学を持ってもらった生徒は誰しもが知っている常識だった。なぜかは授業での台詞による。 ある日の授業中に黒板に書きものをしようとしてチョークを手にした時だ。月島は黒板の桟に手を伸ばしかけ、動きをサッと止めて言った。 「……使う人間が気分悪くするような掃除の仕方、しないでくれる?」 その声の低さたるや、背筋が凍るような声色だった。その日から影で”潔癖症の月島先生”と呼ばれるようになった。言わずもがな黒板掃除係は命をかけるようになった。 (そのせいで俺の掃除場所が教室……しかも黒板限定になったとか、悪意しか感じないよ) なんとも分かりやすいクラスの連帯感に苦笑いにしかでなかった山口は、良い人と分かる反応で、断り切れずにここ3カ月間ずっと教室掃除だ。もうそろそろ飽きてきたと思わなくもないが、頼まれればまた二学期もするんだろうなと思う。 ふと山口の視界に箒の先っぽが入る。掃除が終わったばかりの放課後の教室を掃除してるんだ……そんなに汚れが気になるのかな? と月島の行動を不審に思う。するとツンツンと足を突かれた。 「あし、上げて」 「はっはい! あの……ここまで掃除するんですか?」 「汚れてるんだから仕方ないデショ」 「はあ」 両足を揃えてあげれば机の下を箒が行ったり来たりしてゴミを浚っていく。いいよ、と言われてやっとのことで足を下せた頃には、山口の心臓はバクバクと音をたてていた。気付かないうちに息を止めていたみたいだ。緊張のし過ぎは、本当に良くないと思う。 一番前の席の自分の机を綺麗にしてから床を一掃していく月島。 山口はその、窓辺まで行って戻って来るぎりぎりまでその後ろ姿を観察して、彼が振り返る直前にノートに視線を逸らした。またリターンしていく姿を軽く振り返って見て、それからノートをみて……を繰り返す。 動くたびに月島の首筋にかかる金髪がさらさらと眩しいことに気づく。そういえば入学式に比べてここ三年ほどで伸びているような、気もする。 (……切らないのかな?) 思わず聞きかけて、慌てて手で口を塞ぐ。 今は勉強してるってことになってるんだから―――いや、嘘ではないんだけど。変なことを訊ねると叱られてしまうような気がした。今まで叱られたことはないにしろ、相手は怖い印象が強い先生だからきっと余計なことはしちゃいけないし訊ねるとダメなんだ……と思う。 すると声を掛けられた。どこか不審に思っている声色だ。 「―――何してんの。見てると鉛筆、動いてないみたいだけど」 「え、いや……ははは」 「遊んでんの?」 「いいいっいえ!! 先生はその―――掃除好きですよ、ね」 「はあ?」 どうにか怒らせない話題、と思って選んだ質問がどうしてかお気に召さなかったようだ。振り返った先にいた月島は顔を存外に顰めていた。心底ふざけるなと言いたげな顔だった。キュッと山口の心臓が縮こまる。 思わず恐怖から口がへの字になったところに、月島が近づいてくる。 「ひィっ!」 喉から変な声が出る。 月島の長い脚を使えば距離はあっという間に詰められた。泣きそうに身構える山口。その元にやって来た月島は顔をズイっと寄せて、額がぶつかりそうなほどの距離で話し始める。 「僕は掃除が好きなんじゃない」 「は、はい」 「勘違いしないで、別に掃除なんて好きじゃない」 「ひゃい……!」 舌を噛みそうになる、もう半泣き状態だ。 「君たちが下手な掃除するからだよ。授業でみんな使うところなんだから綺麗な方が気分がいいデショ、なのになんなのこのゴミ? 授業する前から気分悪いよ」 「ごもっともです……」 「わかったの?」 「はいいい!!」 「僕は好きでこうやって掃除してるんじゃないの」 分かったならもっと腰入れてやりなよ。そう言いながら身を起こそうとした月島をみて、ホッとした山口が下ろしていた顔を上げようとしたときだ。タイミングがずれて月島の顔すれすれを鼻が掠める。驚きで固まった山口だったがその直後、唇までへんな感覚が走る。 「へっ」 可愛い声を上げた山口の目に入ったのは、同じくキョトンとした月島の顔だった。 こんなに間抜けな先生の顔は見たことない―――そう立ち尽くした月島を見上げて山口は思う。そしてすぐに、首元がカッカとしはじめた。 「へ、ぁ……え? いま、え」 「―――忘れろ」 「え」 顔が熱いと感じるより早く、月島がそう告げる。驚いて視点をもう一度彼に合わせるが、もう月島はキョトンとはしておらず顔を顰めていた。その表情がさっき起こったハプニングを肯定しているように思えた。 ……キスだ。 バードキス、ちょっと触れただけだったけど確実に唇同士がぶつかった。あれはきっとハプニングとしかいいようがない出来事だ。顔の距離を近づけすぎた月島の、事故の可能性を見通せなかったという失態。……こんな誰にも言えない事故。 そうして悶々と悩むより早く山口のハプニングは忠告された。忘れろ、と。 「あ、の」 「塵取りと箒、片付けて」 「あのっ、」 「戸締りして帰って」 「―――はい」 素早く踵を返す月島。気付けばもう教室のドアをくぐろうとしていた。 まるで逃げるようだ……山口はそう感じる。一度もこっちを振り返らない姿も猫背を固くした態度も、駆け足で去っていくその影も。全部全部無かったことにしてくれと頼み込んでいるように見えた。……なんだそれ。山口にしてみれば、それがとっても滑稽な姿に思えた。 別に言い訳なんかせずに、叱ればいいのに。 (不注意だって……汚い顔を引っ付けるなって、叱ればいいのに) ホントなら感情に任せて叱ればいいのだ。 授業で見せるあの冷たく突き放す態度を出せばいいだけなのに、どうして―――あの人は苦しそうな顔をして逃げたのだろうか。わからない、と言ってしまえば簡単だ。俺も逃げればいい。 でも山口は逃げない……逃げなかった。 「なんだったんだ……」 そう言って机に突っ伏す。白紙のままのノートがかさっと音をたてて皺をつくると、寝転がった視界に膨張した横線だけが入ってきた。見ていると気持ちが悪くなる近さだ。まるでさっき先生の目を見た時みたい。 ふと寝言のように呟く。 「かっこよかったな……月島せんせい」 いつもは眼鏡に隠れたせいで見えずらくしかも見つめるなんてできるはずもない怖い先生を、あんなに間近で見たのは(当たり前だけど)初めてのことだった。山口は、苦しくなった肺を制服の上から掴む。 ふとあの言葉を思い出した。 『月島先生のお気に入り』 ……やっぱり間違ってなかったんだ。山口は変に納得したように頭を抱える。謎が解けたぐらいじゃ心が休まるわけないんだ、こんな、知りたくもなかった謎が解けたぐらいじゃ。全然、安心なんかできない。 (本当の意味で気に入られてるだとか、一体誰に相談すればいいんだろう―――それに) 嫌だって思わなかった自分のことも含めて、誰に相談すればいいんだろう……。 時間は悩む山口を放ったらかしにして、下校時刻を知らせるチャイムが校内に響いた。 家に帰った月島を待っていたのは兄だった。 何年も先輩社会人である彼と実家以外で会うこと物凄く珍しいことだ、というかなんで勝手に一人暮らしのところにくるんだ。そして勝手に入ってるんだ。やっぱり合鍵を渡すんじゃなかった……と後悔しながら、リビングに寝転がる兄に声を掛ける。 「いつ来たの?」 「お~おかえり蛍」 「うわ滅茶苦茶飲んでるし……」 「帰ってくんの遅かったなあ」 「勝手に来たからデショ。言ってくれれば早く帰ってきたのに」 「それは悪かったな~」 と言ってグハハと豪快に笑う兄はいつもより増してテンションが高い。 何かいいことがあったのだろうか、そう訊ねようかと迷って面倒な気持ちが勝って止めにする。面倒事は職場だけで十分だと思う。なにも家に帰って来てまで考え事をする必要はない、と。 そう思うと脳裏を過るのはあの光景しかない。―――今日教え子のひとりとキスをした。 あれは事故だそうとしか思えないし、相手だってそう理解しているはずだ。なのに一番納得していなかったのは月島自身だった。月島は教え子、山口に生徒としてではない感情を抱いている。それは月島が一番よく分かっていた。これが人に良い顔をされない感情だということも含めて、全部。山口が一年生だった頃は別にそんなことはなかった。まだその頃は授業を持ったこともなかったし廊下ですれ違ったくらいじゃ、言い方は悪いが山口は目につくような生徒じゃない。それが変わったのは二年生のとき。初めて授業を持った時だ。 『あ、ぅ……』 今にも泣きそうな目で教科書を握りしめて立ち上がったその姿は、まるで公園で虐められる小学生のようだった。ビクビクと震えて今にもお漏らしをしそうな顔。顔色は相当悪かった。正直月島も、 (なに? 僕のこと悪代官か何かだと勘違いしてない……?) と気分は良くなかった。それでも憐れに思わないでもないわけでいつもより割増で声を和らげ、話しかけたものだ。 ふと、兄がむくっと起き上がって笑った。「最近どーよ?」 「……なにが」 「愛しの、た・だ・し・ク・ン!」 「っ、別に」 「図星かあ~ははっ、なんか蛍そわそわしてんもんな」 「うそ」 「ほんとー」 また兄は笑った。酒を飲んだ後のこの笑い上戸っぷりは本当にいただけない、しかも口も軽い。面倒なことこの上ない……月島は頭を抱える。 この兄は月島の本心を見抜いていた。昔からそうだ。小さい頃から月島がなにか困っていたり、どうしようかと迷っていると、誰から聞いたのか月島の元にとんで来るのだ。そして大抵何をするわけでもなく―――ただただ背中を押してくれた。それで成功するのだから兄とは不思議な存在だ。 今回の山口の件もすぐに兄にはバレた。しかも一年以上前にだ、正直敵わない相手だと思った。 それでも兄は男同士のことについて馬鹿にはしなかったのだから、寛大な人間なのだろうと感心させられた。……きっと自分が彼の立場だったら眉を顰めただろうな、と思ったからというのが一番の理由だがそれはまあいいとして。 それからというもの兄は来るたびに山口との進展を聞いてくる。 きっと今回もその延長線上だったんだろう。 「山口が魔性すぎる」 「それは初対面からだろ~? なんだっけ、あれ。提出物のときのはなし」 「……泣いたやつ?」 「それそれ! 可愛いよなあ」 「やめてよ、山口を可愛いって言うの」 「おおっ一丁前に嫉妬してる」 「違う!」 月島が声を荒げれば荒げるほど、兄はニヤニヤと笑う。にんまりと笑う姿がどこぞの大学での先輩を思い出した、黒猫に似たあの先輩を。 「だいたいあれは、嘘が下手なくせに騙そうとした山口が悪い」 「それで泣いちゃうんだから可愛いもんだっての」 「……まあね」 小さく零すとまた兄がニシッと笑った。 ……本当にもう叶わない人だ。 一年ぐらい前のこと山口が初めて化学で赤点を取った。その時の化学は確かに難しい内容だった。シス=トランス異性体だとかアルデヒド基の結合だとか、ちょっと捻った問題を出したのだから月島も意地悪だ。そしてその際に赤点保持者の生徒に出した宿題がなんとも鬼のような量だったのだ。 本音を言うと全部できるわけがなかった。山口だけにかぎらず、誰もが。 それを山口が朝提出しに来たときのこと。提出指定だったのは化学問題集Ⅱの方だった。なのに山口は化学問題集Ⅰをもってきた。 『ぁ―――ご、ごめんなさっ』 ガクガクと震えながら山口は、問題集の中身を確認している月島の姿を見ていた。朝の廊下は誰も通らない。そのせいで山口の掠れた声は響いた。 『なにコレ?』 『ま、ちが……えて』 『ふーん』 『あぅ……ごめんなさいっ』 それから山口は泣いた。 声は漏らさずに涙を一滴二滴零して、眉を寄せて泣く姿はまったくもっていじらしかった。だがしかし月島は知っていた。この問題集がわざとに間違えられたものだということを。 そりゃそうだ問題集Ⅱは終わるはずないのだから、家に忘れて猶予を貰いたい気持ちは分かるし。なによりさっき玄関で聞いたのだ。”忘れたふりでもしようかと思って……”と友人に言っている彼の言葉を。 でも月島は叱るつもりはなかった。 むしろどう出るのかと、楽しみに見ていた。……のだけど。 (あんまりにも本気で泣くから―――ほんと厄介だ) 大方山口のことだから途中で本気で申し訳なくなって涙が出てきたんだろう。泣き脅し作戦というより、嘘を吐いたことへの謝罪の涙。ちゃんと月島はこの臆病な生徒の本心を見抜いていた。そしてそのうえで気づかないふりをして告げてやったのだ。 『もういいよ。次のテスト頑張りな、時間ないし提出はもう無しでいいから』 そう言ってもなお泣き止まなかった山口はやっぱり、罪悪感に溺れていたんだろうなと今になって月島は気付いた。同じことを兄に話しても、兄は兄で、 「可愛くてよろしい!」 と上機嫌だったのだから兄弟は兄弟なんだな~と思わざるを得なかったのだが。 「蛍は、忠くんに骨抜きだからなー」 「違うってば」 「じゃあなんで結婚しない? もう28だよお前、イイ歳だ」 「……うるさい」 「また図星だ」 クツクツと喉の奥で笑う兄の声が耳障りに感じる。こんなことになるなら兄の努める大学の実験、上手くいかなかったら良かったのにと疎ましく思う。 それでも兄がご機嫌だとこう自分までいい気分になってくるのだから、月島も結構のブラコンなんだろう。本人は気付いていないのだけど。 テーブルに並ぶできあいのオードブルを見るに晩ご飯は心配しなくても良いらしい。ちょっと手が付けられたぐらいで大方残っているそれを見て考える月島は、来ていたスーツをハンガーに掛ける。暑くなってきたここ最近Yシャツに変えようかと迷ってそのままにしていたせいか、首筋に汗をかいていた。気持ちが悪いな……眉を顰めていると、兄が口を開いた。 「あ~忠くん会ってみたいな」 「……そういえば山口。進路希望で兄ちゃんの大学出してた」 「え? マジで」 なら会えるかもしれないな、だなんて嬉しそうな顔をしてまた酒を煽るもんだから月島はくすぐったくなる。どこまでも過保護な家族の中で特に自分と歳が近い兄は、山口を家族に迎え入れる気満々なのだ。その心は『弟が選んだ相手なら間違えないだろう』って、……嬉しかったとは言えないクール系の月島だ。 誤魔化すように月島は唇を尖らせる。そしてコショコショと小さく、 「べつに山口ぐらい……」 と言うと今度は兄がキョトンとした。 「そういや告白すんの?」 「は!?」 月島が鞄を落とした。そのまま素っ頓狂な声で叫ぶ。 「なななにバカなのっ、は、告白うぅッ!? するわけないじゃん相手生徒だし!」 「いやいやテンパりすぎだから。別に今すぐって訳じゃねえって、ほら。卒業したら他人になっちゃうだろ、蛍?」 「それは……」 「卒業まであと半年、はやいぞ~」 空の缶を集める音にまぎれて兄の声が届く。 感慨深そうな声は適当なことを言ってくれるが、その実確かに卒業まで時間がなかった。卒業したって生徒が訪れてくることはあるが、この月島という男にかぎってはそんな相手がいるとは思えない。特に、勝手に月島が気に入っているだけで山口にしてみれば迷惑ととられてもおかしくない現状では。 ……こくはく? 馬鹿じゃないの、上手くいくはずない! 今まで兄に対してこんな汚い口をきいたことが無かった月島でも、思わずぽろっと言ってしまった。それぐらいには気が動転していた。 簡単に言ってもらっては困るのだ。そんな告白なんて……今まで月島は、されたことはごまんとあれど『したこと』は一度もない。タイミングも場所もなにもかもわからないし、オッケーしてもらえるサインなんて分かりっこない。秀才な月島ですらそれは難解な問題で。 もしかして今まで僕に告白してきた女の子は、こんな気持ちだったのか―――なんて感心したところで告白する勇気も持てず。 「こ、この歳になって……馬鹿馬鹿しいよ」 そう言って月島は鼻で笑ったのだった。 自分の生徒に骨抜きにされた自分を、鼻で笑って。 時刻は18時39分を過ぎた。 まさかこんな時間に大学に向かわなきゃいけなくなるなんて、今朝の山口は想像だにしなかったに違いない。 それもこれもゴールデンウィーク前にレポート提出を忘れていた自分が悪いのだ。ちゃんとカバンにまで入れていたのに、なんという失態! 「あっ。ホッチキスで留めんの忘れてた」 信号待ちでカバンの中身をチェックしていると捲れている紙を見つけ、レポートの紙が留まっていないことに気づく。どうりで右に左にファイルが動くわけだ。紙が折れていなかっただけでも良しとしたいところだ。そういえば自分で持っていたホッチキスはたしか芯が無くなっていたはず。友人たちに貸して! と言われるがままにあげていたら、すぐに無くなってしまったのだ。 これは誰かに借りたいところ―――放課後の大学にいる友人は、と考えてすぐに出てきたのは金田一だ。同じ教育学部の小学校コースの彼ならきっと持っているだろう。だがたしか彼は実家通いのはず。試験が近いわけでもない四月下旬はそそくさと帰ってしまうだろう。なら国見は? と考えて彼も実家だったと思いつく。 なんとも悲しい友人の少なさ……。 「っと」 やっとのことで大学の入り口にたどり着く。春になったとはいえ、もうすでに空は暗くなりかけていた。大学から歩いて10分のところに下宿先がある山口でさえ、家に着く頃にはおそらく紫色の空に見下ろされているだろうな~と想像がついた。 これは早いところ帰らないと―――とエントランスをくぐり抜けてコンビニの隣を通って、理科の実験室を目指す。 「月島先生……月島先生の研究室は、っと」 前に来た時の記憶を頼りに、山口は一階の研究室の前を歩いていった。エントランスに近い一階には理科系統の先生の研究室が並ぶのだから、この通りに間違いないはずだ。小学校コースの必修科目の件でよくお世話になるのでそれはよく分かっている。 とはいってもこんな夜に訊ねるのは初めてだ。 こんな大学が閉まるぎりぎりの時間まで居たのは初めてで、19時に閉めるための警備員さんとすれ違う以外に誰ともすれ違わないのは新鮮だった。電気も半分ほど消えていてなんとも寂しい感じがする。これが来年になったら卒論とかでずっと残っているんだろうな……と思うと、四回生になりたくないような気もした。 「卒業かあ……」 早くも三年目に突入したことに山口は感慨深くなった。 気付けば苦手だった理科も、小学校教諭免許のために頑張らなくてはいけなくなって一年が過ぎた。初めは高校で履修していなかった生物に悩まされていたが、ダメもとで月島明光先生に相談しに行ってここまでやってこれた。最終的に二回生の後期の試験では驚異の97点を叩きだしたのだから、先生には正直頭が上がらなかった。 (それは山口の実力だから自信持て……か) こんなに感謝していても先生は笑って山口の頭を撫でながらそう言ってくれたのだから、もう尊敬するしかない。 「あっ、まだ研究室電気ついてる」 山口は提出ボックスのある理科実験室の向かいを見てホッとする。月島明光先生の研究室に電気がついていたのだ。これならホッチキスを借りられるとホッとして、山口は胸をなで下ろした。 理科の実験レポートの提出期限は明日までだが、明日全休の山口としてはこのまま下宿先に帰って実家に戻る用意をして明日帰省する気でいた。そのためにはこのレポートを提出しないと帰られない。でもホッチキスで留めていないと出せない―――ならいつもお世話になっている先生に助けてもらおう! そんな単純な考えだった。 月島先生は優しい。どれぐらいかというと、実験の手引きを読んでこなくても叱らないぐらいだ。……イヤイヤ本当はいけないことなんだけど。 山口はふと思った。 どこぞの同じ苗字の先生とは大違いだ―――と。 だってあの先生は、最後まで何にも言ってくれなかった。 あの日起きた事故のことだって本当に何にもなかったみたいに、忘れたふりをして。まるで山口が白昼夢を見たかのように無かったことにして。……月島は山口に何も教えなかったのだから。 あの日から変に意識をしてしまった山口は残りの高校生活の間ずっと担任を目で追ってしまっていたのにかかわらず、だ。それに気付かない鈍感な月島ではなかったはずなのに、月島は気づかないふりをして何もしなかった。まるで進展することを望んでいないように。 (待ってたんだけどなあ) なんだそりゃ、と思いながら山口は苦笑いを浮かべる。 待つとか待たないとかそんな問題じゃないだろうに。告白されることを望んでいる自分がいたことに驚いたのは、ここ最近のこと。高校三年間よか大学の二年間の方が濃いいな~と金田一たちと話していた際に、ふと思い出したのだ。そういえば不完全燃焼な思いをしたことあったなあ、と。 なら自分から告白すればよかったのか? と問われても、それとは全く話が違うと山口はすぐに首を振る。だってそれじゃあ思い損だろうから。 恋っていうのは好きになった方が負けだ ―――と言ったのは大学の先輩だった。 なら赤葦先輩は負けたくないから誰とも付き合わないのだろうか……そう悩んだものだ。 別に山口は勝ちたいわけじゃない。負けにいったとしても山口としては、ただ幸せになりたいだけだった。好きな相手と一度でいいから恋してみたい。そんで相手も自分のことを大好きになってくれればもうけものだ、と。 山口は我儘だった。自分が10ほど相手を想うのなら、相手は25―――自分を想って欲しい。自分が夜も眠れないほど相手を想うなら、相手は息が詰まって窒息するほど自分を想って欲しい。 ……だなあんて、重くて仕方ないだろうなって。想いが重いなんてうまいこと誰が考えたんだかと笑った。山口にしては珍しい、自分を嘲笑するような笑いだった。 そんなに好かれる自信がないのに関わらずたくさん好きになってほしいだなんて、烏滸がましいに決まってる。身の程を弁えればいいのにね……そう言い聞かせて何年たつだろう。少なくとも先日成人式を迎えた山口としては、子どもな部分を捨てたくて仕方なかった。身の程知らずな部分を。 だからこそ思う。 告白してもらえないうちは自分に魅力なんかどこにもないんだ。 コンコン――― 「失礼します……今お時間大丈夫ですか?」 「お、山口じゃん。どうしたの?」 ドアからではモザイクがかかっていて中が見えないので、外から研究室を見学することは早々に諦めた。居るかどうかは分からないが、それでも電気がついているからきっと大丈夫だろうと思ってノックをするとビンゴだったようで、ホワイトボードで隠れたデスクの後ろから身を傾けて先生が驚いた顔をしている。 もしかして電話とかで忙しかったのだろうか? そう不安がっていると、先生は笑って手招きをしてくれた。良かった、今は大丈夫そうだ。 「ホッチキス借りたくて」 「ああ提出物? 明日までだよな」 「はい。でも実家に帰るんで早めに出したくて……」 「あ~ゴールデンウィークだもんな、俺は学会の出席で休みなしだけど(笑)」 「お疲れ様です!!」 あんがとう、と言いながら先生はホワイトボードにまた隠れてごそごそとし、少ししてから「あった。」と手を伸ばしてきた。その手に乗っていた大きめのホッチキスはすこし草臥れていたが、ずっしりとした重さでしっかり芯が入ってそうだ。 「ありがとうございます! すみません借りるだけ借りて……」 「気にすんな気にすんな。どうせ実験室開いてなかったんだろ?」 「そうなんです、本当に困ります!」 「あそこ閉まるの早いからなあ、ホッチキス貸し出す場所なのに」 たしかに実験室は閉まるのが早い。わざわざ提出ボックスの上に貼り紙で『ホッチキスの貸し出しは実験室中で』とあるくせに、どこの研究室よりも早く閉まるとはどんなものか……? という不満は教育学部の中でずっと言われ続けてきた。 先生が椅子の背もたれに力をかけて揺れながら、 「また化学の先生に言っとくな~」 と笑っていたのを受けて山口はピピンとくる。そうだこの人も先生なんだから、もっと早くに相談すればよかったのだと。 「ありがとうございます!!」 「いいって山口クンよ」 適当に手を振る先生。 余計に嬉しくなった山口は思わず言ってみた。 「お礼させてください!」 「え、いやいや。そんな気を使わなくても……」 「いつもお世話になってるんで、何か言ってください。ぜひ!」 「ええ~そんな気にしなくていいんだけど。……あ」 「なんですか!?」 渋っていた先生が断ろうとしていたが、ふと何か思いついたように手をポンッとする。椅子を転がしてホワイトボードの隣にずれてから、意気込んでいる山口に言った。 「缶ジュース、何か買ってきてくれないか? できれば甘いやつ」 正直規模が小さいような……と思わなくもなかった。 こんなんで日頃の恩返しになる訳がないような気がしたが、頑なにそれでいい! と言い張った先生に負けて学外の自動販売機までやって来た山口。もしかして先生は学生に気を使わせないためにと缶ジュースにしたのかもな。 あの先生ならありうる、と自動販売機の前に来てふと思った。なんていうか……むしろ気を使わせてしまったのかも? お礼のつもりが一体全体何をしてるんだか、山口はため息が出た。 廊下の電気はすでに消されており付いていたのは非常口の青色ランプと、先生の研究室の灯りのみ。先生は19時までに帰らなくても良いのか? あとで聞いてみよう、と考えながらドアを押した。 「失礼します。買って来ましたよ先生」 両手でドアを閉めながら見るとまたホワイトボードにデスクが遮られていた。ホワイトボードの端から白衣が見え隠れしている。 待っていても先生の返事がない。……どうしたんだろうか? 「せんせい?」 するとパソコンのキーボードが打たれる音がしはじめた。ブオンっという冷蔵庫の音が重なると下手な合奏のようだった。 キーボードを先生が無言で叩いている時は集中しているサイン―――それがここ一年で山口が気付いたことだ。勉強を教えてもらいに来た回数は両手じゃ足りないほどのもので、その中でお互いに迷惑を掛けないようにと山口が必死に編み出したことだった。 でもだからと言って何をどうするわけじゃない。しいというなら集中している時の先生は本当に無心だから、質問しても意味がないというコト。邪魔にならないようにはやく帰ることもあれば、打ち終えるのを待って質問をまとめておくこともあった。 もっともこの時間の山口は非常に暇だということだけは言える。 「あっちゃ……」 どうしよっかな、このジュース―――。 甘めと言われたからには相当甘いものを、とミルクココアを選んだ。あったかいものが良いのか冷たいものが良いのか、どちらもこの季節には合うのだから迷ってしまった。しかしながらせっかく選んだジュースもこうパソコンに集中されちゃあ、買ってきた意味がないというものだ。 帰るかどうか……いやせっかく買ってきた缶ジュースだ。付箋を貼って置き去りにするだけじゃ、お礼になりゃしないだろう。 「そうだ。レポートの分からなかったとこ、聞こっかな……えっと」 先生のパソコン使用時間はそんなに長くない。四半刻もあれば飽きて肩を鳴らし、そしてこちらに気づくだろう。それまで待ってレポートの質問を一つでもすれば、お礼を言うために待つ口実もできるし。 手に持っていたホッチキスで留められたレポートをぱらぱらとみる。そういえば内容は理科とはいえど化学だ、先生の専攻は生物だけど大丈夫だろうか? 山口は入り口近くに置いてあったテーブルにカバンを乗せながら、ホワイトボードをチラッと見る。まだキーボードを打っている音は続いていて、白衣は猫背気味に丸まっていた。 (月島先生、みたい……) 脳裏に思い出されたのはテスト中に教卓で居眠りをしていた、月島先生……蛍先生のほうだ。彼はかなりの猫背だった。隣に並ぶと背が高いのは一目瞭然だったけど、猫背の上でそうだったということは相当長身だというわけで。 丸まった背が可愛く見えた、というのは山口の内緒事の一つだ。 同じ苗字だと誰もかれも猫背になるのだろうか? まさかそんなことはないと思うけど―――てことは、月島先生は蛍先生と兄弟ってこと? そう考えれば考えるほど山口は喉が渇く。いっそのこと買ってきた缶ジュースを飲んでしまおうか、とすら思ったがそれじゃ意味がないと首を振った。 それに同じ月島という姓だからといって兄弟と決まった訳じゃない。たとえ同じぐらい背が高くても……髪色が似ていても……ってあれ? 「―――つきしませんせ?」 思わず小さな声で呼ぶ。 当たり前のように返事はない。 (気のせいだよね……) 山口は苦笑を浮かべた。 さあもうそんなことはどうでもいい。他人に重ねてドギマギされるだなんて、どんなに失礼なことかわからないわけでもない山口なのだから、自分の中で折り合いをつけて頭の中を変えようと考える。 とにかく目の前の優しい月島先生のことだ。生物担当だから教えてくれない、なんて意地悪はされないと思うけど……ややこしい内容ではないからきっと大丈夫だ! そう自分を鼓舞し中身の吟味をはじめる。 山口は小さく呟いて考える。 「ホウ酸の収集率は蒸留水の質量と温度で求める、でいいのかな……」 よしこれを聞こう! 計算があってなかったら大変だもんね、と頷いていると首筋に何かが掠めた。途端にぶるりと肩が震える。 すると次の瞬間、耳の後ろで空気が揺れた。 「後日の収拾量を計算上の収量で割るんだよ」 腰が抜ける。「ひィっ!」 手から思わずレポートが離れそうになると、咄嗟に取り上げられて難を逃れる。それを見てほっと息を吐いたのも束の間、持ち上げた手の先を見て喉の奥が鳴った。 「なッ―――つきしませっ、」 「うるさい山口」 「え、あ、すみません?」 「まったく……」 取られたレポートで額を叩かれる。地味に痛い……というかレポートが痛む、と患部を押さえながら羨ましげに見つめてやると、眼鏡の下で月島が冷たく見下ろしているのがわかった。そのことにまたビクリと震える。なんとなくだ、なんとなく―――月島が怒っているのだと分かった。 山口はなんで彼がいるのか聞きたくても、相手が恐ろしくて怖くて訊けない。怒っているならなおさらだ。聞けないまま一刻、一刻とまた過ぎていく。目だけが合う変な空間。お互いが微動だにしなかった。 しかし珍しいことに月島が先に動いた。重いくちを開く。 「なんで僕に聞かないの」 「へ……」 「お前の化学の先生は、僕でしょ?」 ―――何を言っているんだろうか。 正直、山口は困惑していた。 だって月島は確かに科学の先生だがそれは高校の、であってこの大学ではない。それに彼とは卒業式以来全くあっていなかったはずだ。同窓会に一度として山口は出ようとしなかったのだから当然のことであるが。 でもそれは面と向かって言えないので山口はやんわりと否定した。 「だって俺……月島先生の連絡先、知りませんし…」 「聞けばいいデショ。なんなら家も教えてあげる」 「え!? そそそれはちょっと、」 そう山口が断るとまた不機嫌そうに月島が眉を寄せる。そのことに山口はビビって身を縮こまらせ、そのままテーブルの下に隠れようとした。しかしながらそれを目ざとく見つけた月島に引っ張り上げられる。 山口は足を掴まれてビックリという声を出した。 「っ、ちょ!?」 「何隠れようとしてんの、逃げれると思ってる?」 「ううぅ……せんせ……月島先生助けてくださいいい!!」 「何?」 「そっちじゃなくてその、大学のっ、生物のほうです!!」 「ざんね~ん。兄ちゃんはパソコンと仲良くやってます」 「うぐぐ」 やっぱり兄弟だったのか!! 今更知ってももう遅い。知ったところで足を離してもらえるとは思えない……。何がそんなに気に入らないのだろうか? そんなに自分の生徒が化学嫌いなのが気になるのか? こんな兄の大学に訪れてまで? ―――わからない、本当に。いつもいつも……わかったことなんて何にもなくて、いつも遊ばれて、適当にあしらわれて何にもなかったようにされて……いっつも困るのは自分の方だ。 近づいてくるのはそっちのくせして、こっちが覚悟を決めた途端無かったように逃げるんだ。 悪い大人の例を見ているような気がした。 こんな人……こっちから逃げてやるって思った。のに、 (カッコいいんだから、ほんと腹が立ってしょうがない……) テーブルの脚にしがみつきながら、身を屈めた月島のしかめっ面を眺める。そんなに暢気に見学できるわけでもないが、それでも昔よりはしっかりと見えた。あの事故のときよりも長い前髪だとか睫毛だとか、逆に短い後ろ髪だとか―――あれから三年経ったんだってありありと教えられる。 そしてそのたびにキラキラとした月島に、目が眩むんだ。 「出てきなさい山口」 「いやです!」 「優しくしてる間においで、ほら」 「いやです!!」 「……出てこい山口」 「やーです! パソコンが終わるまで籠城しますうう!!」 「はあ? そんな可愛いこと言って騙されると思うの……騙されるけど?」 「は、え、え?」 思わず変な声が出る山口。 その瞬間手の力が緩む、それを見逃すはずもなく引きずり出された。 「へ」 でもいまだに山口は困惑していた。だってさっきの月島の言葉は、まったくもって、彼らしくなかったのだから。あんな口説くみたいな台詞を冗談だって吐くような人じゃなかったはずだ。しかもこんな真顔で。……なんで? まさかこの三年の間に軽い人間になってしまったのだろうか―――? 信じたくない仮説に山口が眉を顰めて混乱していると、それを見た月島が今度は吹き出した。 「かわいー」 かわいい、なんてコメントに声が出ない山口は、目を泳がせてから口を戦慄かせるという器用なことをする。そして顔に血が集まって来るのを感じて隠そうとした。しかしながらそこはちゃっかり者の月島、先手必勝と言わんばかりに両手を伸ばして山口の手を掴む。 そのまま力一杯に引っ張って山口の指を引き寄せた。グイッという効果音と共に、山口は月島の胸の前に連れていかれる。その距離は非常に近い、あり得ないほど近い。顔を上げれば鼻と鼻がぶつかるほどだ。 そのときふと山口の脳裏によぎったのは、あの事件の日のことだ。まるでこれは――― 「どうしたの山口、顔上げないの?」 「あ、ぅ……」 「今ならちゃんとしてあげる」 そう言って月島は山口の耳に唇を近づける。 キ ス 笑ったように震えた空気が耳たぶを掠めてこそばゆい。ふとすれば耳全体を噛みつけれそうな距離に山口が驚いて、身体が固まった。そのくせ口だけは精一杯パクパクと動いてさながら金魚が餌を求めるような姿になっている。 不意にパソコンのキーボードの音が止んだ。しかし山口は気付かない。 その双方の動きに気づいた月島はそのうえで、にんまりと笑ってまるで誰かに牽制するかのように声を大にして宣言してみせた。 「なあんでも教えてあげるよ山口……だから、今度はお前が僕をどう思ってるのか言いなよ」 もう生徒じゃないお前に教えてあげるんだから、当然のお礼デショ? ―――色んな意味を含んで月島は笑った。 「え? 先生は月島……その、えっと、蛍せんせー……が来てること、気付いてたんですか?」 「おう、だから甘いジュース買いに行かせただろ?」 「(((だからか)))」 「というか蛍せんせーはどこにいたんですか?」 「初めからいたけど?」 「へ」 「ホワイトボードって結構大きいよねぇ……山口と兄ちゃんが話してた時からいたよ」 「……ぅ、きっ、気づかなかったの俺だけ―――」 「かわいかったぞー」 「かわいかったよー」(カタコト) 「ってか、なんで今更来たんですか!?」 「だって成人式迎えたデショ」 「?」 「もうお前も大人だから。イイだろうと思ったってだけ」 その日、山口は初めて身の危険を感じた。 おしまい