エイリアンちっく☆異世界
その日―――。 神戸はおそろしいほどの快晴だった。石段が組まれた歩道を踏み外さないように気をつけながら歩いていた俺は、空の異様なまでに澄んだ色を見上げて深呼吸した。 誰も気づかない。 晴れ渡った太陽のもとで己の定位置にせっせと向かう生真面目な日本人たちは、空を見ることすら忘れて、青に変わったばかりの三色団子に足を急かされるのだ。かくいう俺も同じだ。信号横に設置された変化予知機械がゼロを示す前に隣のサラリーマンが歩き出した。踏み出し際に俺の右肩に鞄をぶつける、謝られるわけもない。まあしょうがねーか。 ここ数年で慣れた都会の薄情さに目を瞑って、今度こそ青になった歩行者専用信号をちらっと見、大学行きのバス停に向かった。 半月前のことになるだろうか、口の悪い教育学部の友人が史学科の自分をうらやましがって言った。 「水曜日とか空きコマ多いんやろユニバとか行きーや、せっかく関西きたんや。ほら彼女とか誘って」 そいつの場合は口が悪いというか、ただ単純に関西弁がきついだけなんだけど。関西人のお節介が相俟って「遊びに行けよ」と言ってくれるのは、一見ありがたいことで親切そうに聞こえるが、俺には生憎その彼女っつう存在がいねえんだよ。そういう点でいえば、この友人は間抜けというか、俺のことをよく知っていない。 よく知っているといえば、そういや伊月だ。あいつにバッシュ預けたままだった。伊月と大学までまさか一緒になるとか二年前には想像してなかったが、なってみると「そういやこれだわ」というしっくりした感じがする。流石は腐れ縁もとい幼馴染だ。……じゃなかった、今はその伊月に預かってもらっているバッシュの返却方法を疎通しなければ。 ハンドバックのサイドポケットを漁ってスマホを取り出す。 いまの時間だったらまだ、一限目は始まってないはずだ。果たして講義が一限目から入っていたか知ったところじゃないが、伊月のいる法学部は、すくなくとも俺よか講義数は多いはずだ。気配りをしておいた方が良いのは、いうまでもないだろう。 電話が良いか、それともメールか。もし仮に移動中だとすれば確実に前者は迷惑がかかる、がしかし、一限目は始まっていないとはいえ時刻は8時56分だ。講義は9時からなわけで、伊月が席に着席してないはずがない。かといって電話をしたところで、要件がまとまってない今かけると講義までに話が終わる気もしない。結局迷った挙句にメールを送信することにした。それが打ち終えるころに、まるで見計らったかのごとくバスが到着した。今日はなんだかついてるな……メールの内容を再度確認してから送って、スマホをバックのポケットに滑り込ませる。 するとそのポケットを引っ張りあげられた、しかも背後にだ。 ポケットから滑り出すスマホが大きな手に包まれていく。「なッ」 「こうやってスられるぞー日向」 彼はそういってからスマホの角を自分の頬にあてて、にっこり笑った。 「ご忠告どーも。あと髪、クセついてんぞ」 調子にのって俺に忠告なんかするからだダァホ、と挨拶代わりにスマホを拉致ってきた大男の奇抜な髪の毛アートを指摘する。外見を最低限にしか整えない大男もとい木吉は、そのくせイケメンとも呼べる(と俺は思ってないが)顔のおかげで周囲に笑われることがない。いやむしろ女がキャーキャーいいそうな顔、らしい。俺の隣に居られると比較されるので居てほしくない、まあ伊月が居ても変わらんのだけど。 にしても今日は一段と薄暗い瞳をしている。実験が上手くいかねーのか? そういや木吉は管理栄養学科だった、実験が多すぎて疲れてんのかもしんねえ。 「そんなんで今日の練習試合できんのかよ」 動き出したバスの列に合わせて足を動かす。一番後ろに並んでいた俺の背後に木吉が並び、同じように列を動かす。大学方面に向かう人間がそんなに居ないことに感謝しながらバスの手前まで来たとき、巨体を揺らしていた木吉は俺の問い掛けに苦笑いで答えた。 「なにいってるんだ、日向」 「あん?」 木吉の苦笑にイラッとくるも、そう言うってことは元気ってことか、と安心する。 大学に入ってからもやめられなかったバスケは俺と木吉と伊月を結ぶ一種の交流場になっていた。それがなくても別に縁が切れるわけでもないが、やっぱりあった方が断然良いに決まってる。こう言いたくはないが、俺のすべてを支えてくれたバスケを捨てることを、諦めることを諦めさせたある男が、『バスケってやっぱり楽しい』って実感させるんだ。それに残念なことにも高校三年生のときには連覇できなかったっつー心残りがある。やっぱりそうなると諦められない、ってなるのがリコに叩き込まれた精神論ってやつだろう。 しかもなんの偶然か木吉までも俺と同じ大学だった。伊月につづいて木吉までって……どこまで世の中狭いんだよ!! そう叫んだ高校卒業式がほんのり懐かしい。兵庫県なんて東京からすると贔屓めにいっても近くはないはずだ、そんなの神奈川や茨城の方が近いに決まっている。俺がそれでもこの神戸を選んだのは、この大学に俺の尊敬する史学科の教授がいらっしゃるとの情報を聞きつけたからだ。是非ともその教授の講義を聞いて、あわよくばゼミに入りたい―――というのが魂胆だったのだが。大学自体はお世辞にも偏差値が高いともいえないのにもかかわらず、伊月も木吉も誠凛きっての秀才だったはずなのに、なんでこんな大学に入学したのかいまだに謎でしかない。 とはいえ学部的にふたりの学部はそうそうどこも簡単に入れるわけじゃあない。そうなるとやっぱり、俺と同じ大学になったってのは縁とか偶然としか思いようがなかった。 その縁とやらを感心しているときに木吉が目を輝かせて言った。 「切っても切れない縁ってやつだな!」 どこまでも前向きな野郎だ。卒業式で後輩に泣きつかれていた俺は、木吉のその台詞に、一気に興奮が冷めてつぎの瞬間には木吉の脳天を叩いていた。それも含めてもはや懐かしい。 その伊月曰く『ご縁?』ってやつのおかげで元誠凛の三本柱とよばれた俺たちが、同じ大学に集まった。これはもうバスケで全国狙うしかないだろ? やる気もあれば実力もあるふたりが居る。リコという有能な監督は離れてしまっていたし、コガや水戸部や土田や後輩たちといった仲間はいないが、そんななかでも集まったことは『ご縁』あってのことだろう。 だからこそ毎回の練習試合は気合が入りまくっていた。まだ二回生だからそんなに試合に出させてもらうことはない――悔しいが木吉ほどの才能がないことは、重々承知している――が、それでもバスケに触れ合えること自体が幸せでしょうがなかった。 しかも今日は海常の主将だった笠松さんがくる予定だ。昨日のうちに伊月から聞いていたから間違いない。俺が一昨日ちょっとした野暮用で部活を休まざるを得ないとき、バッシュ忘れてたから預かったという連絡と共に教えてもらった。忘れたというのも、この週末は体育館が家政学部に占領されてファッションショー会場になるってことをわすれてバッシュを更衣室に置きっぱにしてしまったというわけだ。伊月が居ないと、せっかくの練習試合だってのに危うく置きっぱなしのバッシュを家政学部に回収されて、挙句はバッシュ無しで迎えることになるところだった。あぶねぇ……。 そんで今日は伊月が野暮用らしく来れないと事前に聞いている、そのためどっかで落ち合わないとせっかく預かってもらったバッシュを返してもらえない。 そういやさっき送ったメールの返信、きてんのか? バスの段差に足をとられないように感覚を取っていると木吉がぼそりと呟いたのが聞こえた。 「日向はもう、バスケ、やめただろ?」 朝、俺は不覚にも今日の運勢ってやつを最高だと思い込んでしまった。 今はその勘違いがさいっっこうに恥ずかしい。というか、痛々しすぎて頭を抱えるわ。 きっとおは朝の占いが最下位だったに違いない。そうなったら某高校の緑髪に眼鏡をかけた奴みたいにラッキーアイテムを探さないといけない破目になる、いや、そうする価値はきっとあるに決まっている。なんでって、こんなに今の現状が最悪なんだから、これ以上の悲劇は起きるはずがない……とおもう。 「……ないないないない」 ないない、と口では言っておきながら頭のなかじゃ真逆のことを考えていた。つまり”それ以外考えられないだろう”ってことだ。昼間のトイレの個室で口にするには、あまりに寂しすぎる独り言。以上、日向順平の独り言タイムでした―――なんちって。 そんなことを言ってふざけている場合じゃあない。 いまは冷静に…そう、クレバーに徹さねえと。ってそれ伊月じゃん。いまそいつらに困ってるんだけど真似してる場合じゃねえから、ほんと、ガチで。 「どうしたんだよ……伊月も、木吉も」 もうこうなったら泣きたいぐらいだ。頭を悩ませる要因の二大要素にため息も出ずに、そのかわり疲れ切った脳裏に浮かぶのは、さっき出くわした、変わり果てた仲間の姿だった。 * バスに片足を突っ込んだ俺は、耳の奥に聞こえた台詞があまりにも難解で受け入れがたいうえ、すこし気を抜けば零れ落としそうなほど小さな声だったために、ほかの動作が取れなくなってしまっていた。 「……え」 俺は顔を上げた。 そこには歩行者を雨からまもる停留所の屋根を背にした木吉が、仄暗い光を宿したままの瞳で笑っている。 無言で視線をぶつからせていると、ふと、バスの運転手がブウー!! とクラクションを鳴らした。 「お客さん、乗るの? それとも乗らないの?」 「――の、のります」 「じゃあ早くしてくださいよ」 運転手の言葉に、そうだそうだ、と頷いたようにみえる乗客たちに俺は焦って乗り込む。もちろん背後にいる木吉もついで乗り込んできた。定時通りにバスはブザーを鳴らしてドアを閉じた。減らしたタイヤの空気を詰め込んでつめこんで、車内放送を流して、前方の信号が青であることを確認すればいつも通りの出発だった。 そう、いつも通りに大学に向かうバスの中のはずだった。 「――ひゅうが」 がらがらのバスの中で”いつも”は隣に座らない木吉が、二人席に腕を引っ張ってきた。いつも通りじゃない木吉の行動に驚いて咄嗟に拒絶できない。雪崩れこむようにして席に座り込めば、もっと奥にこい、とばかりに先に奥に詰めていた木吉が左腕を引っ張り出す。 「ちょ……なにしてんだ、お、おれは別の席で…」 「まあまあ」 落ち着かせるように木吉が笑う、相変わらず目の奥は何かを隠しているように淀んでいた。 俺が身体を捻りながら足を通路に出して立ち上がろうとすると、させまいとした太い腕がまとわりついてくる。ご丁寧に股関節を取り囲むようにして木吉がその丸太を連想させる腕で捕まえているせいで、もはや抱きつかれているような体勢になっていた。これはまずい…!! すっげー恥ずい……っ! どうにかひっぺがさないと。 力任せにやっても剥がれるわけがないこの馬鹿力の説得を試みた。 「きよしっ、お前、ばかか……離せっ!!」 小声で忠告する。 「なんでだ?」 「なんでって……そりゃ…公共の場で男が抱き合ってたらおかしいだろっ!? つーか俺がきもち悪いわっ!!」 「――伊月は良いのに俺はダメなのか」 「はあぁぁぁ?」 いつ俺が伊月にこんなこと許したよ、てか伊月はこんなスキンシップ激しいことしねえし。そう小さい声で反発し威嚇をくわえる。が、木吉の眼は虚ろなまま……やはり、にっこり笑っていた。 「日向は知らないんだ……」 「はあ?! んなにがだよっ、」 「伊月が」 木吉がなにか言いかけたときバスが急カーブを曲がった。 「おわッ、」 いつもは体重移動をしてバランスをとるところを忘れていたせいで転びかける。だがその前で木吉が俺の肩を引き寄せて身体全身を包み込む。いうなら木吉が繭になって俺を囲っている、視界いっぱいに馬鹿げた木吉のピンク色のシャツが広がっていた。抱きしめられた背中が熱い……いまは体格差をありがたく思った。 「わ、わり……」 助かったわ、とつづくはずだった言葉が途切れる。 木吉の犬歯が首に突き刺さった。 「――ひぅぅぅっ、」 口を開いた俺から、無意識に呼吸音が洩れだした。首の筋肉が驚いて固まっていくが木吉の牙はそれよりはやく、鋭く、皮膚に沈んでいく。引き攣った筋肉が痙攣したようにヒクヒクと怯えだす。 「ぅう……」 呻き声が喉の奥から込み上げる。甘噛みなんて可愛いもんじゃない、ヘタしたら血が噴き出すレベルだ。なんで木吉がこんなひどいことをするんだよッ―――意味不明な言動にさっき見た木吉の鬱蒼とした表情が浮かぶ。誰だよこいつ……っ!! 恐怖というより裏切られたことへの悲しさから、目の奥がちかちかして涙が浮かぶ。……そりゃあ、傷口は痛い。刺さったままの歯がぐりぐりと皮膚に進むのも、耐えがたいぐらい痛い。喚けたらどれだけいいか―――いくらバスの後部だとはいえ、公共の場でそんな迷惑めいたことはできないからしないけど。だけどそれより一番心にクるのは、殺さんばかりの殺気で襲い掛かってきている木吉だ。……裏切られたとしか思いようがない。 涙は意地でも出さなかった。 でも代わりに涎が溢れてきた。痛みで閉じられない唇の端からどろどろ、と。 「ぅン、んん、っ」 痛みに耐えるための酸素が足りない。肺で必死に呼吸をよびかけても、身体じゅうが緊張して上手く器官が働いてくれない。 いい加減痛みが鈍くなってきた……誰かにこんな姿見られたら………っ、 「……ひゅうが」 のそりと木吉が顔を上げた。それと一緒に犬歯がずぷりっと俺から抜き取られていく。 ぞわり。 異物が身体から抜けていく、身の毛もよだつ感覚に背筋が寒くなるが、顎に落ちる自分の唾液を拭うほうが先だった。ベトベトするという気持ち悪さと脈うつような首筋の痛さに、木吉が襲い掛かって来たのは夢じゃなかったのだと思い知らされる。 その事実に気づいたとき、抱きしめていた木吉が名前を呼んだ。 「日向」 二度目は固い声だ。 「俺にしておけ」 「はぁ…………?」 俺は理解に苦しんで顔を歪ませた。俺には難しすぎる。いつだってそうだ、こいつは腹の中でなにか重くて素手で触っちゃいけないようなどろどろしたモノを飼っていて、誰にもそれを見せたがらない。そのくせ俺が無視しようとすると「逃げないでくれ」とばかりに腕を掴んで、引き戻す。 先ほど己の首筋に食らいついた男と同一人物とは思えないぐらいに縋りついてくる、弱りきった木吉の姿に、はてどうしたものか……と悩む。殺そうとしたくせに、と蔑むにはまだ材料が足りない……。だからといって、許すには強烈すぎた。 「お前は……」 一体お前は、俺に何がしたいんだ――そう訊ねようとしたとき、不意にバスのアナウンスが流れた。運転手が告げるバス停名は大学前のソレだった。 慌てて纏わりつく丸太の腕を叩いて、まだボーっとして俺を見つめている木吉の目を覚まそうとする。 「おいッ、降りるぞ!!」 「……伊月には渡さない」 「わーったから早く離せッ!」 またもや木吉が俺を腕に閉じ込めて頬擦りしようとしたため、即座に奴の顎に向かって俺の後頭部をぶつけて逃れた。そうだそうだ、はじめからこうしてたらよかったんだ……次からこうしよう。良い方法が思いついて達成感を感じるが、すぐにハッとして、隣で顎を押さえて悶絶している木吉の腕を引っ張って立たせ、「俺達も降りますッ!!」と運転手に声をかけた。 すでに到着していたバスの階段を下り、痛みで唸る木吉がどうしてもお金を出せそうになかったので、代わりに210円を立て替えておく。絶対に後で支払わせるがな。 この状況だけ思い出しても十分、いや十分すぎるほど、おかしかった。 もっと適切な言葉で表現するならば異様で異常。昨日までこんなことをする男じゃなかったはずだ、すくなくとも俺の知ってる木吉という男は。 それがどうして一晩でこう、いってしまえば、こんなにも病んじまったんだ? いっちゃ悪いが俺と木吉は、元からお世辞にも仲良しとはいえない。友人というには互いを知らなさ過ぎたし、なによりそんなに綺麗な関係じゃあない。かといって級友というにはあっさりとしすぎているだろう。……あれ、思えば俺と木吉ってどーいう関係なんだ? (すくなくとも恩人、ではあるんだけどな) わからん。だけど、これだけはいえる。 俺と木吉は付き合ってない。 朝はこんな調子で木吉がおかしかった。 大学前の坂を上るときですら纏わりついて来て、挙句の果てに言った台詞にピキッときた。 「そんなにドシドシ歩いたら体に悪いぞ、ひゅうが~!!」 「うっせーよ! 大きな声で呼ぶなッ!!!」 囃し立てる周囲の学生の目が気になって、木吉を怒鳴りつけた。それでも木吉は飽きずに名前を呼んで「ゆっくり歩け」と命令してきた、それにまた腹が立って無視してやった。 それからはもう知らん。 木吉を置き去りにして大学内に入った俺は、史学科の講義のなかでも必要性のあまりない教育学概論のために一番高い階を目指して歩いていった。一気に駆け上がったせいか身体が疲れた、体力が落ちたのだろうか、反省だ。筋トレ増やさないと……。 高校の歴史の教員になりたくてとった教科は人気が無くて、よっぽどのことがなければ同じ学科の生徒を見かけない。そんなに先生になりたくないのか――と毎度のことながらガッカリしながら一人寂しく席を決めていると、肩を誰かにポンっと叩かれた。 振り返るとそこに、爽やかに苦笑いを浮かべる幼馴染が鞄を肩にかけて立っていた。 「おー伊月、おはよ」 「おはよう。……ていうか、日向お前、この教室と違うだろ?」 「は?」 何を言ってるんだコイツ。 俺はとまどいを抑えられない。理解と判断に苦しむ状況だった。 これがもし仮にも伊月じゃなくてコガ辺りが言ったことだとしよう。すると簡単に事は終わる。「お前勘違いしてんぞ? 館、間違ってんじゃねえの?」とでも言えばコガは、そっか! と気付いて立ち去るだろう。 だがしかし、ここに居るのはまぎれもなく伊月だ。下準備も万端に効率よくこなす、シュミレーションばっちりの伊月俊だ。その用意周到さは俺が一番知ってる。なんせ中学高校と随分その手際の良さに助けられたのだから。つまり伊月が間違えるはずがない。それにこいつの性格だ、俺が信じて困るような嘘は吐くはずない。―――てことは本当にこの教室じゃないのか? ああ、そうなんだ。ありがとうな……。 と言えたらよかった。 言えなかった。 理由は簡単だ。この教室が違うはずがなかったから。 教育学概論はこのC館の4階である411でおこなわれると決まっている。なぜならこの教室が一番プロジェクターが大きいからだ、しかも二つある。そんでもってこの教室は無駄にデカい。あれほどこの講義の受講人数は少ないって言ってんのに、馬鹿みたいにこの教室は広い。しかしそれがまた俺の記憶に残っている理由になっていた。 なら……なんで伊月はこんなことをいうんだ? 俺は不思議でしょうがなかった。 そのうち時間がきていざ講義が始まってみると、そこは未知の世界で、隣にしょうがなしに座ってくれていた伊月が小声で、「だから言っただろ?」と苦笑していた。 意味がわからないことだらけだ――しかもあとで伊月に聞いてみると、教育学概論なんて講義を俺はとっていなかったぞと教えられた。むしろもう去年取り終えただろう、とも言われた。 「はあ??」 ハテナは増える一方だ。謎も深まる一方で与えられたはずの答えがまた新たな謎を生む。なんという負のスパイラル……一体何がどうなってるんだ。 90分を茫然と過ごした俺は講義終わりにふらふらしながらも、なんとか立ち上がり、伊月に誘われるがまま昼食を食堂でとるために移動しようとした。そのとき向かいからやって来た教育学科の友人に声をかけられた。 「おはよー日向」 「……おう」 「なんか疲れとらんか? お、」 首を傾げた友人がつぎの瞬間には、何故かにやにやと笑っていた。……なんだその顔は。こっちとら意味がわからずに疲れてんのに。 「んだよ――」 「いや~お盛んやなあ、と思てな」 「は?」 「く、び、す、じ!」 そう言いながらトントンと仕草をし、俺の首を見やる。 なんだよ、くび……? とすこし考えてハッとする。そういやそこ、バスの中で木吉が暴れたところ……。まさか変に誤解されてんのか!? ふざけんなよ……ッ。 しかし彼の視線はもう俺には向いていなかった。 興味がそれたのか、とホッとして俺は友人を怒ろうとしたのを止めた。 「で、」 のが間違えだった。 「……なにがだよ?」 友人のつぎなる質問に聞き返してしまった。 「今度のは伊月? それとも木吉か?」 「――――――ぇ、」 「はははは冗談はよしてくれよ。……残念ながら俺じゃないんだ」 背中からかけられた伊月の台詞。飲み込めないまま言葉が耳から落ちていった。声を発した本人の方すら見れない俺を置き去りに、友人は何かを把握したように「じゃ~木吉っちゅうわけか!」と軽く笑った。……なにが、木吉なの? 気が動転して前を凝視したまま動けずにいると、友人の後ろから違う友人がやって来た。 「遠野~今回はどっちやって?」 「木吉やってさ。ほんま、日向モッテモテやん」 イケメンにモテるとか羨ましいわwww ま、男やからビミョーやけどwwww そう言ってから昼食に向かうからと手を振る友人たちに、俺は手を振り返せなかった。モテるってなんのことだ、訊ねようとしたが色々おそろしくて訊けない。それになにより背中に居る幼馴染の言動が信じられなくて動けなかった。 「…ぃ……いづ、き」 「なに日向」 あっさりと”いつも通り”に、伊月は返事をしてくれた。――それがむしろ異様だった。 「ざんねん、ってなんなんだよ……?」 聞き間違いであってくれと念じながら詰問した俺を、嘲笑うかのように伊月は美しく微笑んでいた。頭のなかがぐるぐると回って気持ち悪くなりながら振り返った俺は、伊月の笑顔に木吉が重なって、ついに吐きそうになった。 「だいじょうぶ日向、木吉には渡さないから」 なにが大丈夫なのか。俺には怖くて訊けなかった。 * 真っ昼間のトイレというのは、どこに入っても随分と賑やかなもんだ。 下世話な話じゃなくて、廊下を絶え間なく人が通り過ぎているという意味でだ。こんなに気が散る場所じゃ、考え事をするなんて馬鹿々々しくなっちまう。しょうがなくC館のトイレから腰を上げて食堂を目指した。 本当なら今ごろ伊月と一緒に昼食を食べているはずだった。なぜならそれが”いつも通り”だからだ。伊月であれど木吉であれど、誘われれば一緒にご飯を食べることにしている。高校のときだったら反発して絶対に断っただろう木吉とだって、ちょっと大人になって考えてみれば、なにをあんなに拒絶する必要があったのだろうか? と落ち着いて対処できるようになったし、そのおかげか比較的に誘いを断らなくなった。他学部の友人たちとも昼食を一緒に食べることはあったが、それでも腐れ縁の二人と居る時間は長かった。 そんな日常に水を差したのは、まぎれもなく張本人たちだ。 なんということだろう。 俺に日々を過ごす楽しさを思い出させた木吉が、平穏な生活を拒むように「俺をえらべ」と選択肢を用意してきた。伊月はいけない、あいつはダメだ。そんな忠告まで引っさげて。 その一方で昔から誰より信頼していたはずの伊月が、なんの説明もなく「大丈夫だから安心しろ」と逃げ道を奪っていった。お節介なところがあると思ってはいたがここまでくると、それはもう、おかしいとしか言いようがなかった。 おかしいのは伊月だけじゃない。もちろん木吉もそれに含まれるのだが、木吉のバスの中で見せた欝々とした表情は依然として忘れられないし、伊月の沈鬱な空気に包まれた表情だって記憶に染みついて消えてくれない。悪いのは俺なんだろうか? 何がいけなくて二人はそんなに、塞ぎこんだ鬱状態になってしまったのだろうか? (わかんねえよ……きもちわりぃ……クソッ) 気持ち悪いのは、自分にたいしてだ。 そうさせる具体的なきっかけが分からないのが、気持ち悪い。 他にも気持ち悪いことはある。 「……どうなってんだ、講義は」 いつも受けているはずの講義が忽然となくなっている。その感覚が、気持ち悪かった。こっちの場合は木吉や伊月みたいに明確な変化がないわけで……一体どういうことなんだろうか。これこそ大問題だ。先週講義を受けた記憶はあるのだから、間違いなくあったはずなのに……。それに去年単位を取ったはずだろう、という伊月の指摘も謎だ。試験すら受けた記憶がないのに単位が貰えるはずがない。というかあの講義は二回生のやつのはずだ、一回生でとれるはずないだろ。 まさか伊月が嘘を吐いているのだろうか……。 信じられない推測だ。馬鹿々々しい。 以前の俺ならそう切り捨てられたはずだったけど。 (いまの伊月は……おかしい) さっき美しく笑ってきた幼馴染の目が笑っていなかったのは、おかしいという何よりの証拠だった。背筋が凍って逃げ出してしまった俺の背に向かって、「……逃げるんだな」と零したのは聞かないフリをした。四半刻も前のことなのに今でも手の震えが止まらない。 変わってしまった伊月が俺を騙す事なんて簡単だろう。たとえば講義の場所が変わったのを隠して、もう終わった単位だ、と教えてくればいいだけの話だ。 いまの伊月は信じられない―――もちろん木吉のことだって。 そんな信用ならない人間と一緒に居たら、あんまり考えたくないが頭の良くない俺は、すぐに騙されちまうだろう。 だからこそ二人と少しの間だけ距離を置くことにした。 そんなこんなで俺は悩みまくった。 これでもかってほど悩んだ、明日辺りに知恵熱で休みそうだ。 ここまで知恵を絞りきって足りない脳みそを刻む勢いでやって、そこで、やっと思いついたことがある。 ――パラレルワールドという単語を知っているだろうか。 リコやコガが耳にしたら爆笑して喜びそうなふざけたキーワードだが、俺はいたって真剣だった。その所謂異世界って考えるとすべての辻褄が合うのだから、口にせずにはいられなかった。 (ここがもし……異世界なら…) 昨日までとまるで人が変わったように執着してくる――とは言いたくないが、そうとしか思えない木吉と伊月の態度も理解できる。また朝方に木吉が口にしていた「日向はもう、バスケやめただろ?」の台詞も理解できない、ことはない……異世界ならそういう未来もあるだろう。なんせパラレルワールドなんだ、似て非なる世界で当たり前。 俺がそう考えたのには、ほかにも理由がある。 それはこの世界があまりにも俺が知ってる世界に似すぎていることだ。大学名だって地名だって変わりがないし、そのうえ学部学科も変わりがない。俺が所属していたはずのバスケ部もあったし誠凛にも俺が主将を務めていたっていう証拠があった。わざわざ降旗に電話して訊ねたんだから間違いない。 驚いたのは降旗が、 「え……半月前に会ったじゃないですか…?」 と言って記憶喪失の心配をしてきたことだ。そんなこと覚えてないんだけどな――というわけにもいかずに、心優しい後輩の気遣いに感謝しつつ電話を切った。それにしてもあいつらのせいで忘れかけていたけど後輩たちは純粋で可愛かった。いろいろと癒された。降旗と一緒に居たらしい福田が心配げに、「兵庫とか遠いよな……」といって見舞いに来ようとまでしていた。俺はその優しさにホロッときかけた。……大学の廊下の真ん中で泣くわけにはいかなかったから、必死に耐えたが。 どこの世界でも後輩は天使だった。その事実に励まされて足を食堂に向けた俺は、ここがもし本当に異世界だとしたら戻る方法を模索しなければ、と思案していた。……寝ればいいのか? ただ単純にここに来たときみたく寝て待てば良いのだろうか? と考えあぐねながら食堂に入った。時間をずらしたおかげか学生の少ない食堂の自販機の前に立って、今日の日替わり定食を頼む。がたん、と音をたてて落ちてきた券を持って、席を探そうと振り返ったそのときだ。そこにあった異世界ならではの見慣れない光景にポカーンとなった。 食堂に設置された巨大パネルには、テレビが映し出されてある。 それはいつものことだった。――内容がおかしくなければ気にも留めなかっただろう。 「――――ッ!?」 そこには現代の日本の社会が映されていた。どこかの大学の記者会見が映し出されており、医学部のチームが成功したと見出しで書かれてあった。刻印された月日は7月4日つまり今日の日付、のはずだった。 『およそ一年前、2015年7月4日に行われた大学チームの会見により、多くの同性愛者が自由に恋愛をできる風潮が高まってまいりました。以前より東京都の一部では同性婚に対する制度を発表しておりましたが、この大学チームのおかげで男性妊娠も可能になり、そのことにより益々恋愛の形に――』 ゾッとした。一年前というアナウンサーの台詞に目を剥くがすぐに、男性妊娠、というワードに身体が固まる。この世界はまさかそこまで進んでいるなんて……。 俺は、困惑していた。迷子のようにおろおろして、 「あ、あ……」 と口をぱくぱくさせる。何故かはわからないが激しく恐怖に襲われた。まるで豪雨のような恐怖がどんどん、どんどんと押し寄せてくる。この波に飲み込まれたらもう二度と天を拝めないような……そんな危機感を覚える。 理由のない恐怖なんて馬鹿げている。 すぐさまテレビに背を向けて、席を探そうと踏み出す。そこに声をかけられた。 「日向」 「…………」 俺は、気がつくとがたがた震えだしていた。まるで首元に鋭利なナイフを突きつけられた人質にでもなった気がした。そんな惨めな俺に木吉は静かに続ける。 「伊月はダメだ」 木吉が俺を直視している、その視線を痛いほどに感じる。 「なんで、こっちを見ないんだ日向?」 「……いやその」 俺は思わず顔を上げた。そこで木吉が、まっすぐに見つめてくる。俺はその視線から眼を逸らすことができない。 「…………」 「まさか――日向? あいつを――伊月を、選ばないよな?」 「…………」 「日向には俺しかいないもんな、俺以外を選ぶわけ、無いよな? 日向は俺を裏切らない――そうだろ?」 木吉の誤解した言葉に、俺はいきなり振り返って、目の前にあった馬鹿デカいピンク色のシャツの襟口を引っ掴んだ。 キレていた。 俺がこの世界の日向じゃないってことに気づきもしないくせに――俺に選ばせようなんて、ふざけんなよ。俺は木吉も伊月も選ばない。……リコみたいな芯の通った女を選ぶ。 「クソが……っ、絶ッ対にテメーなんざ、選ばねェ……伊月もだッ、ざけんなよ――ッ!」 勢いに任せて木吉を突き飛ばした。 後方に吹っ飛んでいった巨体がテーブルに突っ込み騒音を立てて倒れる。近くに立っていた学生が甲高い声で「きゃぁぁぁぁ!!!」と驚きの声を上げた。なんだなんだ、と人が集まってくる。 「――な、」 俺はハッとして今し方怒りに任せておこなったことを後悔した。慌てて倒れた椅子の隙間に座り込んでいた木吉に近寄り、安否のために声をかけた。意識不明とか洒落にならない事態は避けたかった。だが、そんな心配はいらなかったようだ。 「はは……」 木吉は拍子抜けするほど元気に笑っていた。 そして同じぐらい、変わらなかった。 「――たまんねぇよ、日向は」 ぱっくりと額が切れた木吉が仄暗い眼をしたまま、頬を染めて笑っていた。……嗚呼こいつもやっぱりおかしいんだ、と改めて俺が思っていると学生課の奴らが木吉を保護しに来ては、強制的に俺と木吉を分離させた。 一刻も早く元の世界に戻りたい。 こんなのんびり昼食なんか摂ってる暇はない、と焦る気持ちはあったが腹が減っては戦はできぬ。真剣に考えているときに限って賑やかにはしゃぎだす腹の虫を落ち着けるために、食券で日替わりランチを頼みにいく。列に並ぶときも皿を受け取るときも、さっきの喧騒の一部始終を見ていた連中たちの賑やかな視線を感じていた。これは腹が満たされても解決されない厄介な問題だ。 しかしそれも直に収まった。三限目が始まるのに合わせて食堂から学生たちの大半が抜けていったからだ。それにすれ違うようにして新参者がご飯にありつこうと食堂に入ってくるため、俺と木吉の喧騒を見ていた人間はそうそういなくなった。俺もたしか三限目があったはずだが、しかしそれも、異世界のここじゃあ当てにならない時間割りに等しい。仮に三限があったとしてもどの講義がそれに該当するのかさっぱりなのだから、もういっそのこと諦めて休講させていただくことにする。 それにしても――一体どうすれば戻れるのだろうか? 確信が持てない今の段階ではひとりで解決策を探すのには、手間がかかりすぎる。インターネットに溢れているその類の情報はデマが多いだろうし、なにより、厨二病的ストーリーとして楽しんでいるところがあるため真剣にとり合ってくれる気がしない。 俺には時間がない。非常に由々しき事態なんだ。明日また探せばいいや~という、甘ったれた根性で挑めるほど優しい世界じゃないと知ってしまった。今にでもやれ木吉が――やれ伊月が――と、何をしでかすかわからない状態だ。下手すりゃ今日中に何か起こってしまうかもしれない。一番恐れていた事態の何かが。 恐れているだけでもみっともないが、見えない恐怖に足をとられるのもみっともない。みっともないことには慣れているつもりだったが、どうも俺のプライドはそれを許すことができないらしく、今とっても自分自身に腹を立てている。 (きっかけが……帰れる手掛かりが、欲しい――) 誰かに縋りついて元の世界に戻りたいと軟弱にも願ってしまう、そんな惨めな自分に、心底腹が立った。それでも帰れないよりはマシだった。 こんな異世界の人だらけの世界からオサラバするためだ――少しぐらいは我慢して誰かに手伝ってもらうしかない。 「はあ……」 やるっきゃないか、そういう意味でため息が漏れた。 でもその覚悟のおかげで前に進もうとして、思考回路がカタコトと進みはじめ音をたてる。ここまで精一杯生きてきた己の人生を明日につづける、確かな音だった。こんなに愛おしく必死な音を簡単に止めるわけにはいかない。ぐずぐずと迷ってプライドと覚悟を天秤にかけるのをためらうより、割り切った方が、はるかにしっかりと前を向いて歩ける。 困ったときに助けてくれる人こそ、真の友人だ。―――とはよく言うものの頭に浮かぶその候補がどことなく頼りなかった。 俺は自販機で買った水を片手に食堂を出て校門を目指しながら、ペットボトルの封を切る。ギチっ――勢いの良い音がする。 さっきも考えた通り、俺の周りには助けてくれる友人が多い……はずだった。というのも地元を離れている今現在では、駆けつけてもらうのも難しいし、なにより今まで一番頼りにしていたその……伊月が標的だとなると、逃げながら援護してくれる人間を見つけるのが大変難しくなった。しかも、もう一人が木吉ときた。頭が良く回る伊月と同じぐらい賢いくせに、人に理解されにくい思考回路を持っている男だ。何をしてくるかわからない。 こんな強敵ふたりを相手にできる人なんて――しかもそれでいて信頼できる人なんて……果たしていただろうか? 小金井はイイ奴だが器用貧乏と称されるように詰めが甘いところがある、悪くいえば最後の最後に逆転されるのが目に見えるのだ。水戸部は彼こそ本当にイイ奴だが、押しが弱い、もし伊月たちが困った顔をすれば揺れる可能性がある。土田は地方だからとにかく来ることは無理だろうし、なにより彼女が唯一いる身であるため、巻き込んで危険な目に遭わせるとかは避けたい……ってどんだけ伊月と木吉を残忍なやつ扱いしてんだ俺。まあいいや。火神はアメリカにいるし、降旗と福田も地方だから以下同文。河原にかぎってはもっと遠い専門学校に行っているのだから、頼める可能性は限りなく低い。 こうして一人一人を思い浮かべてみるとよくわかる。俺はまだこの世界の誠凛を信じたいんだろうって、だからこんなに縋りたくなってるんだって。……じゃねーと、疑ってひとりで解決するだろ。大切な仲間だったからどこでも信じたい。それなのに何が残念かって…伊月と木吉だろ。信じてたのに裏切りやがって――いや、この世界じゃ、これが当たり前なのかもしれない。昔からずっと。……俺なら心が折れてるわ。 昨日の敵は今日のなんとやら~だが、まさか昨日の友は今日の敵とか笑えなさすぎる。 (でも帰りてえよ……) どうしても帰りたいときに限って、事態は悪化するものだ。 知りたくもない人の世の理を身を持って体験した身としては、嘆きたいぐらいだ。 (メール送る前にきづけばよかった、朝気づいてたなら……木吉に出会わずにすんだのに) しかし考えたところで異世界は異世界。接触がずれただけに過ぎないだろうってことは十分承知している。異世界ならではの奇妙さに気づかない、はずがない。 スマホなんてちっぽけな情報媒介物をどーのこーの言ったところで、状況が良くなるとは思えなかった。 「あ」 ふと脳裏にとある人物が浮かんだ。 するとタイミングを見計らったかのように、スマホが振動した。 * 一気に話したからか口の中が乾燥していた。話しているときには気づけなかったが、随分熱心に口を動かしていたようだ。 氷がぷかぷかと浮いているのがかろうじて見えるアイスコーヒーを傾けた。頼んでから相当時間が経っていたせいでグラスの表面は汗をたくさん掻いている。水を飲んでんのかコーヒー飲んでんのか、味が薄すぎてわかんねーわ。つぎ頼む機会があったならすぐに飲もう――グラスの残りを仰いで、俺がそれを喫茶店のテーブルに静かに置くと、目の前にいた客が口を開いた。 透けるような淡い水色の髪をした男は俺が飲み終えるのを待っていたようだった。 「やつれましたね、主将」 懐かしい呼び名に照れ臭くなって唇が緩むのを、歯で噛みしめて耐えた。 「……そりゃ、あんな奴ら相手にしてたらな」 「以前から結構あんな感じでしたけどね」 あっさりと言ってのっけた黒子に、やっぱりそうかと思う反面、もっと嫌悪してくれてもいいはずの内容なのに……なぜそんなに冷静でいれるのか不思議で仕方がない。 バニラアイスを乗せたパンケーキをフォークで丁寧に切っていた黒子に訊ねると、一刀両断するようにすぐさま返された。 「高校のときからですから」 「た、大変だなこの世界も……」 「――ええ。まあ」 主将自身が気付かないんでハラハラしてましたよ、火神くん以外は。 感情という名のパンケーキを飲み込んで無表情になったみたいに、黒子は無のままに口にケーキを詰め込んでいく。黙々と、といった風な隙のない動作に言葉がかけづらい。 「で、」 行儀悪くテーブルに肘をついていた俺は、視線を黒子からとなりに移動させて、そこに座っていた二人の男性を指摘する。 「どういうつもりですか……笠松さん、森山さん?」 たしか俺が指名したのは黒子だけのはずだった。こっちは大切な話のために彼をひとりで呼び出した、しかも俺だって近畿から中部地方まで移動した、のに。約束の喫茶店の中の四人席で黒子が構えていたのを発見したときには、すでにちゃっかり席を陣取っていたこの二人をじろじろ見てしまったのは、全くもって仕方ないと許してほしい。 まだ笠松さんはわかる。心配そうにこっちを窺ってくる姿を見るに、「黒子から聞いてたのかもな……」と黒子と同じ大学に通う笠松さんの心情を察せるからだ。 だが隣の森山さんときたら――この人、いつも通り”面白いこと探し”のために来ている。どこにそれを顔全面に押し出した馬鹿が居るのだろうか、もう頭が痛い。本当に女が絡まないとおふざけが過ぎる人で困る。高校時代に何度もファミレスにて合コン練習させられた記憶が蘇って、気が思いやられた。 「どうした日向順平? 顔色が悪いぞ」 「大方貴方のせいなんですけどね、森山さん」 「なんだと」 ストローで紅茶を飲んでいた森山さんが目を瞬かせ、はて、と首をかしげた。可愛い仕草のわりに中身の残念さを知っている俺は、「なんでも良いですけど……」と諦めの色を示した。 いま、彼の残念さを指摘している暇はない。黒子と想定外の頼れる先輩、笠松さんにアシストを頼めるならそれで良いのだから、最悪邪魔されなければ何でも良い。……ともあれ、そこまで森山さんは図々しくないし大丈夫だろう。 「悪いな日向……俺はよしとけって言ったんだが、森山がどーしてもって」 「なんだ笠松、俺だけのせいにしようとしてるのか!? お前だって、心配だ気になるって黒子の後ろでウロウロしてただろ」 「うっせーよ!! 森山の心配と俺のは違う、どーせお前、このあとナンパする気だろ!」 「当たり前だ笠松。ここは女子に人気の喫茶店だからな!」 ナンパせずには帰れない、そう拳を握る森山さんには悪いが背後に迫る笠松さんの鉄拳は避けられないだろう。元気で大変喜ばしいですよ、森山さん。ご愁傷さまです。 予測通り鉄拳を頂戴してわめき痛がる残メン。その後頭部に到着した拳をいたわっていた笠松さんが、ふと俺を見た。すると彼の吊り上がった凛々しい眉が寄っていることに気づく。どうしたんだろうか、「ナンパは文化だ!」と妄言を撒き散らす先輩に疲れてしまったのだろうか? 心配している俺をよそに、笠松さんは頼んでいたコーラを煽りながら、細めた目で何か伝えたさそうに見てきた。目が口ほどにものを言っている。察しろと言わんばかりのその態度はまったくもって、笠松さんらしくない。いつもならガツンとこう、言ったれ! みたいな感じで構わずぶっこんできそうなものなのに。 「……おい」 諦めて口を開いた笠松さんが、落とした声量で名指しをしないまま俺を呼んだ。 「は、い!」 ――まさか怒らせてしまったのだろうか。 思考回路を読まれたのかと一瞬焦る。しかし目を合わせてみれば違うと気づいた。……笠松さんの表情が、歪んでいる。童顔と称される幼顔がわざわざ渋くみせようとしているように見え、そういやアケビを食べたときに種が詰まったってんで伊月が顔を渋めたときもこんな顔だった……と思い出す。 今は伊月なんざ、どーでもいい。 笠松さんがそんな苦しそうな表情をする必要があるのかというほうが論点だ。まさか何か喉に詰まったのか――と見当外れだとわかっておきながら空気を軽くするために、問おうとして、当人が台詞を遮った。 「かさまっ、」 「疑うわけじゃねーけど、その、なんだ……」 まるで如雨露の注ぎ口に泥が詰まったような流れの悪い台詞だ。 「先週に高尾に会ったことも、覚えてないのか?」 「高尾――? 元秀徳のPGで鷲の目のアイツと」 なんでそいつと俺は会うことになったんだろうか? この世界の人間関係ももしかすると少しずつ、少しずつだが違うのかもしれない。なのに安易に俺が黒子や笠松さん、森山さんと会ったのはもしかすると危険だったのかもしれない。今後は気を引き締めてかからねえと。だが、その今後というのは起こってもらっては困るのだ。今日帰らないと、それこそ木吉と伊月が何をしてくるか心配だ。 そう、俺と高尾はこの世界では友人だったのかもしれない、という結論にたどり着く。 「いや、日向と高尾は仲良くねえよ」 「え? そうなんですか」 驚いて訊き返すと笠松さんは目を逸らしながら頷いた。なんで目を逸らしたんだ……と思いながらも先輩にそんな不躾なことを訊ねることができないのが運動部の宿命だ。 「そうだぞ日向、仲良くはないが、仲が悪くもない。ある意味な」 森山さんが意味深なことを言った。 「おい森山!! それは言うなって、」 「……はぁぁ。わかったわかった」 咄嗟に笠松さんが咎めると、テーブルの上で頬杖をついていた森山さんは元から言う気なかったさ、と肩を竦めた。 「悪いな日向、こんなに賑やかにして――それでえっと、伊月と木吉だったか?」 「え、あ、はい」 いきなり話題を振られて腑抜けた顔をしてしまった。急いで頭を縦に振り、肯定の意を示すと、笠松さんは首のうしろを掻いてからまた渋い顔を作った。俺よりも思いつめた表情と眉に刻まれた深い皺のせいで、顔に暗鬱な陰影がかすめている。今にもため息を吐きそうだと俺がみていると、意外にも笠松さんは瞼を閉じはじめ、ため息を飲み込むようにしてコーラを飲み干した。 「諦めろ」 そうとしか言いようがない。グラスを力強くテーブルに叩きつけて、彼はそう言った―――笠松さんにしては安直に断念を促す台詞だった。 「は、いやいやいや……なんでですか笠松さん? 貴方にしては素直にギブアップしすぎじゃ、」 「じゃあ訊くぞ。日向順平」 俺がイージーギブアップに異論を唱えようとして遮られ、そのことにムッとするより早く、詰問される。 「首の痕はなんだ」 「……っ、それ、は」 「鎖骨の蚯蚓腫れは?」 「ぇ、」 「首後ろの鬱血したとこ、気づいてるか」 森山さんが問い掛けてくる。 「…………」 「背中にも爪痕が酷いよな」 「…………」 「主将失礼ですけど、さらし巻いてませんか?」 ぎくり。黒子の借問に肩がビクつく。 「…………」 なんでこいつら、俺の服の下の状況を知ってんだ。 驚くべきは俺すらも知らない箇所の指摘だ。当てずっぽの絵空事だったら俺も気にはしないが、残念なことにも背中に服が擦れるたびにヒリヒリすることや、大学内で帰宅途中に同級生がからかってきたことが、なによりの証拠となって、冗談じゃないぞ、と教えている。もっとも、規格外の数個の問掛に正常な反応はできないのだが。 黒子の指摘にあったさらしは一体どうやって知ったのだろうか。俺すらも朝起きて驚いたソレ――とりあえず時間がなかったため、そのまま巻いておいただけに過ぎない――をどう知り得た? まさか黒子までなにか、おかしいのか……。 「誠凜はみんな知ってますよ、主将が巻いていることは」 「あ、え、そうなのか……?」 「はい」 悪びれもなく頷く黒子。その姿のどこにも下心は見られない。どうも木吉や伊月の件で疲れていたようで、警戒心が以上に高まっており、後輩にまで有らぬ疑惑をかけるところだった。 テーブルにはすでに空になった食器がいくつもある。それらをウェイトレスが取りに来るタイミングを見計らい、森山さんが声をかけようとして撃沈した。今まではくだらないと苦笑した光景が、今はとっても微笑ましく見えた。肩の力を抜くのと同時にふう、と深呼吸する。気を張りすぎていても後が辛いだけだと言い聞かせてみる、それでもすこし現状に緊張してしまうことは仕方ない。 必死に落ち着こうとしている俺を見ていた笠松さんが声を潜めた。 「諦めることは負けじゃねえ。むしろ、状況によれば勝利を意味する」 「――逃げるな、って言いたいんですか」 「悪いことは言わねえ……相手が悪かった」 「っ、勝手なこと言うんじゃ、」 「主将」 黒子の諫める声が耳の奥に響く。 カッとなって声を荒げそうになっていた俺は、どうしようもなくて口を閉ざした。 「……なんでこんなことに、なってんだよ」 俺がぼそりと漏らす。 「ひゅうが……」 笠松さんと森山さんが声をずらしながら心配そうな声を出した。 そうだ、そういや俺、このふたりに十分な説明をしていなかった。たかが「俺はあなたたちの知っている日向順平じゃ、ないんです」という説明だけじゃ、そりゃ信用してもらえるわけがない。木吉や伊月の異様さは目に余るらしくお二人にも苦渋の選択を迫っているが、俺が外部の人間だとわかってもらえれば、きっと狙われる必要がないむしろ関係ない人間だとして、異世界から戻る協力を仰げるはずだ。 黒子に電話で話した、パラレルという厨二病染みた考えを俺は、恥ずかしさを振り払いながらお二人にも説明しようとした。 「俺は、」 「いい加減にしてください」固い黒子の声が遮った。 「自業自得です」 「な、」 罵倒する勢いで一喝した黒子に、驚愕して目を見開いた。あの控えめで必要なときだけ異常な男気をみせる素直な可愛い後輩が怒っている。そのことが何よりも俺を驚かせ……そして悲しませた。 見たこともない形相でこちらを睨んでいる黒子。どこかで見たことある眼つきだ、とふと思い浮かんだのは霧崎第一高校の花宮をみているソレだった。 それはあきらかに俺を拒んでいる目。 大切な後輩の豹変した姿に頭の中が真っ白になって、話そうとして開いた口が閉じられないまま唖然と黒子を見つめるしかできなかった。 「黒子それは言わないやくそくで、」 「もう限界です笠松さん。貴方や高尾くんは我慢しているのに、主将だけ逃げるのは……あまりにも卑怯です」 「ひ、きょう――?」 理解ができない言葉が行き交う。黒子が彼の隣に座っている笠松さんの方を見ている横顔が、ふと苦痛に歪んだ。……なにか痛い箇所でもあるのか? さっきまで俺を攻め立てていた人間と同一人物とは思えないほど悲しい表情に胸騒ぎを覚えた。仲間の辛い姿なんて、ごめんなんだよ……気づけば、黒子に声をかけていた。 「おしえてくれ」 「…………」 「何がどうとか、わかんねえけどな……後輩に卑怯者扱いされて楽しいわけねえだろ。つかお前が辛そうな顔すんな、俺のせいなんだろうが」 「―――もっと早くそう言ってくれれば、助かったかもしれないのに」 「は?」 訊き返した俺に返答することもなく、黒子は話し始めた。 ほかにその場にいたお二人は気まずそうに、悔やむように、視線を逸らしていた。 「現在日向主将を取りって伊月先輩と木吉先輩が仲違いをしています」 「……おう」 「原因はご存知ですか?」 「いや、まったく。つーかこの世界の、」 「主将の子どもです」 「――――え?」 聞き取れないキーワードが出てきたせいで耳が拒絶してしまったようだ。いや黒子にすればよく聞きなれた単語だろうとはわかるさ。だってこいつは教育学科だから、親しんできたに違いないだろう。だが俺には確実に無関係としか言えない単語。 何の話をしているんだったか……。 一瞬意識が飛びそうになって、助けを求めようと先輩方をみたが視線が完璧に合わない。そこでやっと、お二人が気まずそうにしていたのはこのせいか、と思い至った。 そのあいだにも黒子は次々と俺が耳を疑うようなことを話し始めた。 「中学の時から先輩方はいろいろあったそうですが、そこは監督に訊いてください。泣きながら教えてくれると思います」 「お、お……」 「以前の伊月先輩はいくら主将のことを好んでいると言っても、ある程度抑えてましたし、なにより幼馴染で世話焼きポジションで落ち着いていました。とはいっても高校の合宿で木吉先輩が貴方を襲おうとした際は、暴言の嵐でしたが」 「へぇ……?」 大変だな。となぜか他人事で考えてしまう、どうせは異世界だと簡単に思っているからだ。 「そんな先輩の傍らで一方、木吉先輩は……」 「おう?」 「監禁計画を練ってました」 「――――はい?」 「だから監禁です。逃げないでください、まだ話は終わってません」 それから黒子は、「というかフラグ回避できてよかったですね。降旗くん達が頑張ってくれたおかげです、後日お礼を申し上げることをお勧めします」と続けた。……いやいやいやだから、それ、いつの話? 質問したいことが増えて増えて困るが黒子としては、俺に伝えたいことの半分も言えてないようで、はやく次を話したそうなので口を閉ざすことにした。 「回避させられて考えを改めた木吉先輩でしたが、根本的なところは変わっていません。なので大学も一緒ですよね? ご愁傷さまです」 「あれ、そういうことだったのか」 異世界とはいえ木吉スゲーな。怖えーわ。ほんと逃げたくなる気持ちも分からなくはない、がしかし、黒子曰くこの地点じゃ俺は気づいていていなかったそうだ。 「伊月先輩は依然として、木吉先輩が主将に悪さを働かないか見張ることに重きを置いているだけで、別段進展を望んでいるわけではありませんでした。主将が幸せならそれでいいと言ってましたし」 「いづき……」 「木吉先輩は木吉先輩で、主将が誰かと付き合わなければ、今はそれでいい、と一応は言ってました。……目が笑ってませんでしたけど」 「なんかあいつ、すっげー、怖いんだけど……?」 「ええ。僕も木吉先輩だけはやめた方がいいと思います」 まったくあの人は周囲を巻き込んで犯罪行為を平気でするんですからね―――と遠い目をした黒子の隣で笠松さんが、俺の隣で森山さんが、同じように遠いところを見ては乾いた笑いをこぼす。なんだろな、まるで既視感のある誰かを思い浮かべたかのような笑い方だった。 「しかしその均衡は大学に入って、すぐに崩れました」 一段と黒子の声が厳かになった。それほど静かではないはずの店内に彼の声は響く。 「男性妊娠が可能になった――というニュースはご存知ですか?」 「……まあ、一応」 そういやそのニュースを聞いた直後に木吉を突き飛ばしたんだよな、いや本気でやめときゃよかった、今更だけど。どうしようもない反省をしながら頷いた。 「あれの詳細はご存知ですか?」 「いや全く。あのニュースだけでも衝撃だったしな、それに日付みても驚いたし」 「――一時的にカプセルを埋め込んで子宮代わりにするんです。とある大学の医学部チームが開発しました」 「はぁぁぁ……なんつーか、すっげー」 「ちなみに開発した医大は緑間くんのいる大学です」 「はぁぁぁぁぁぁ!!?」 二度目のため息は驚嘆に変わった。ちょっとばかり声がでかくなってしまったことは致し方無いとしてもらいたい。これが驚かずにいれるものか。 「とはいってもまだ、ひよっこの医大生ですからね。ちょっと手伝ったぐらいで直接は関わってないそうですよ。――ちょっと完成を急かしたぐらいで」 「十分怖えーんだけど。なんなの、キセキの世代ってみんなそうなのか、自分の欲求には忠実なの?」 「そうとは限らないはずなんですけど……。緑間くんの場合は高尾くんが外国に逃げようとしたんで、引き留める最終手段として已むを得ずだった、とか主張してましたけど」 「……ちなみに誰に?」 「もちろん赤司くんにです。言い訳も甚だしいですよね、カプセルのスポンサーになる代わりに一番初めにもらう約束を取り付けることで許した赤司くんも赤司くんですけど」 呆れたとばかりに肩を竦めて眉を寄せる黒子に思わず、赤司は誰にもまだ使ってないよな? と尋ねようとしたがそんな雰囲気でもないと察して黙っておく。 それにしても俺に拒絶を示していた黒子はいつしか、辛い表情はするものの冷たい眼はしなくなっている。心底嫌われたってわけではなさそうだ。 ほっとして胸を撫で下ろしていると、つかさず声をかけられた。 「ところで主将」 「どーしたっ?」 気を許すなとでも言いたげな鋭い声色に、ぎくっとして背筋を伸ばした。 「お腹の調子はどうですか」 「はぁ? んで腹なんて、そんなこと……」 下痢でもあるまいしお前なんでそんな心配をするんだ――。交わった視線の先で、黒子が目を伏せて言った。 「赤司くんはカプセルを使用しませんでした。最終的に相手方に、結婚もしてない奴とそういうことはしたくない、って拒絶されたそうで。……あれで赤司くんも、懐に入れた人間に対して優しいところがありますから」 「しっかりした奴だな、その相手は」 「ええ。流石降旗くんという感じですよね」 「あ?」 「いえ、気にしないでください」 ケロッとして何も言ってないという顔をして見せる黒子。その顔がわざとらしく窓の外を向き、伏せていた瞼を開けて遠くを見やっていたため、「聞き間違えじゃなかった」と勘付いた。やっぱり降旗にはお礼と共に慰めにいかないといけない気がしてきた。 キセキの世代が相手だとこうも疲れるのか……。 「赤司くんが持っていたカプセルは未開封でした」 外を見たまま黒子が続ける。 「そりゃ使わなかったんなら、そうなるだろうな。まあよかったじゃねえか、降旗が無事で」 「――それを欲しがったのが木吉先輩だと言ってもですか」 「はぁぁぁぁ……?」 「欲しがるだけじゃありません。もう、使用されたといっても、良かったと言えますか?」 「…………」 前言撤回だ。 全くもって無冠の五将は安全じゃない。キセキの世代と同等か、それ以上に厄介な存在だ。特に木吉鉄平という男は危険で俺が関わっちゃいけない人種だったのだろう。――元から読めない野郎だった。ふらふらとしながらも人が嫌がることなんでもこなすくせに、褒められたり称賛されることを望むわけじゃない。周囲の評価なんかお構いなしにみえて、どことなく人に喜ばれる行動をとっては、いつも集団の中心で望まれる人材だった。良く言えば人望がある、悪く言えば世渡り上手なのだろう。……俺とは真反対だった。 対して俺はというと、目の前で不祥事が起きればすぐに手を出すような、馬鹿みたいな正義感の塊だとよく言われた。そのくせヘタレが前面に押し出されて一人じゃ解決できやしない。それを手伝ってくれていたのが伊月やリコだった。いつも誰かに支えられていた。……それが今はどうだ? 一人で木吉の腹の中にため込んだものを取り払おうとした高校三年生の夏。きっとアレがすべての原因だろう。 解決できない木吉との関係がこじれて、ここまできたんだ。――言い逃れはできない。 「…………」 そりゃ黒子も逃げるなって腹立つわな。 観念したように俺はため息を吐こうとしたが、ふと、待てよとなった。思い返してみれば、あれ、ここで諦めたらどうなる? 冷や汗が浮かびはじめた。 そんな俺を置き去りにして、黒子は言葉を吐き続けた。 「おなか、痛いですよね?」 「……そ、んな……ことは」 「男性妊娠においては少し女性とケースが違うそうで、二倍の期間が必要らしいんです。それに痛くなる時期も早いとか、緑間くんが言ってました」 「そ、……ぃ、いや、ちげーよ!! 第一カプセル使ったとしても、そ、それはっ俺じゃねえ――っ!! つかそ、そんな、ンなこと……」 「落ち着いてください主将」 「聞けよ黒子っ、だから俺は違うって、言って……っ、」 「――逃げないでください」 黒子の目が俺を貫いていた。 すべてを見抜くような視線に身体が諤々と震えてきて、まるで全身に氷水をかけられたみたいに手足の先が冷たくなった。悴むぐらいの寒さにさっきから震えが止まらない。 助けを求めようとして笠松さんに視線を向けると、彼は目元を手で押さえてとっくに俯いていた。俺は未曾有の絶望に突き落とされながら、こうなったら……と隣の席をチラッと見、森山さんが耳をふさいでいるのに気づき、もう取り返しのつかないところまできてるんだと思い知らされた。 「……ちが、ま、待ってくれ……違うんだっ、」 「いい加減目を覚ましてください」 「っ、くろこ!!」 向かいの席にいた笠松さんが声を上げた。 「もうそのぐらいで、いいだろ――?」 「諦めるんですか笠松さん。もう少しで説明し終えるんです……主将が逃げてきたこと、すべてを」 「だがこれ以上言うと日向が、」 「いえ」 黒子が俺を見つめたまま言った。 「もう逃げるなんて許せません。だって赤ちゃんいるんですから」 「…………ぇ」 震えが止まった。すると腹部が突然痛みはじめた。 「っ、」 息が詰まって驚く。 慌てて手は思わず腹を抱え込んで丸まった。手に汗握る恐怖がそこにあった。 「主将………」 「ちがっ、」 「認めてください。このままじゃ――――いつまでたっても赤ちゃんが可哀そうです」 「!!」 そこでやっと俺はなんで黒子が嫌悪感を纏ったような視線を向けていたのか理解した。 2015年7月4日 ―――――とある大学の医学部チームが、カプセルの正体を明らかにした。それは世界に衝撃を与える成果だった。かつて男性妊娠の最先端をいっていた北欧諸国の実験をも上回る、明白な成功の兆候を示す、成果だった。 その時の被験者の名前を、高尾和成という。傍に寄り添っていたのは緑間という男だった。 当初の大学側の予定では彼らを論文の主役にしようとしていた。だがここで一つ問題が起こった。被験者である高尾和成が姿を眩ましたのだ。ふらっとアパートから緑間が目を離した隙の話だった。―――このまさかの事態に医学部チームは焦った。このままではせっかくの研究結果が無駄になってしまう、あとは出産だけだったのに彼は一体どこに逃げたのだ、と。その中でもひときわ慌てふためいたのは緑間本人だった。 結局高尾和成は海外で見つかったのだが、その頃にはすでに赤ん坊が生まれてしまっていた。 これでは成長の記録がとれないままになって不十分な実験で世間に広められない……そのときだ。一人の男が被験者を名乗り出た。彼は高尾の友人だと自称し、男の代役で実験を続行してほしい、と頼んだ。その申し出を大学側は喜んで受け入れた。そのために実験の成果論文には彼の名前が記されている。 その男の名前は笠松幸男といった。 「かさ、ぇ、かさまつさん……?」 「―――おう」 「その反応は、まだ思い出せていないということですね。説明を続けます」 2015年7月5日 ――――神戸のとある大学で起きた事件。いや事件というにはいささか小さすぎた、どちらかといえばハプニングといえるだろう。 当時大学二回生だった史学科の男子学生が、この日を境に行方不明になった。普通不登校というと学校側が騒ぎ立てるものだがそこは大学だ。自己責任で講義の選択を行うところであって、大学側が不審に思うことはなかった。とはいえど周囲の学生やら友人やらが気に留めないはずがないわけで、高校時の友人を中心にして捜索することにした。 しかしそれも長くは続かなかった。一週間ほど経った頃に男子学生が、ふらっと大学に帰ってきたからだ。 下宿先にも親にも連絡をしていなかったくせにどこに一体隠れていたんだ。そう当時は厳しく問い詰められた男子学生だったが、彼は一貫して「友達の家に遊びに行ってただけだ」と主張し多くを語らなかった。怪しんだ友人たちは心当たりのある人間に聞きまわったが、該当する”友達”とやらは見つからなかった。これは完璧に何か隠しているな――心配した友人は男子学生に直接訊こうとした。だがそうしようにも彼の顔色が非常に良くなかった。そのせいで尋ねられなくなってしまった。男子学生の近くに寄るだけでも彼は過敏に反応し、諤々と震えていたのだ。 その痛々しいほどの変わり具合に、周囲はとある筋を疑った。 「…………」 「―――続けます」 2015年7月13日 ――――以前から異様なまでの執着心を周囲に苦笑いされていたとある男が、ついにやってくれた。一昨日から態度のおかしい友人に対して、みんなの前で強烈な接吻をかました。 被害者ととれる友人の男は泣きながらそれに応えていた。拒絶すると想定していた周囲はまさかの光景に釘付けになった。その後すぐに白目を剥いて意識を失った友人に周囲は駆け寄ろうとしたが、男が友人を抱き上げたせいで叶わない。彼は笑ってこう言った。「眠かったみたいだ、家に連れて帰るな」 その台詞にあった”家”とは何処を指すのだろうか、誰も恐ろしくて尋ねなかった。 その日を皮切りにして男は友人に傷をつけ始めた。初めは首だった、爪痕がついていた。つぎに腕だった、歯型がついていた。つぎは太腿。手の甲。腰、背中、鎖骨―――痛々しい傷跡に吐き気がした。それでも男は笑っていた。それに、友人も助けを求めなかった。………うらやましい。 「な、ぁ……そ、そのノートって、日記なのか?」 「―――さてどうでしょう。続けますよ」 「…………」 2015年7月29日 ――――宣戦布告してやった。目を丸くした友人が可愛い、思い切ってよかったのかもしれない。その反面透かした顔で笑っていた男はゲスだ。目が笑っていないのがバレバレだ。隠す気もなかったのだろう。 腹が立ったから同じようにみんなの前で友人に接吻してみた。なぜか友人に殴られた、意味がよくわからない。そのときまでニコニコしていた男に苛立ったので唾を吐いてやった。ざまあみろ。 「…………な、あ」 「なんでしょうか?」 「この……友人って、その、」 「――――続けます」 2015年8月12日 ――――下宿先に帰ると可愛い友人が出迎えてくれた。吊り目がちの眦が赤く膨らんでいた。どうやら泣いていたらしい。こんなことをするのは奴しか思い付かない。 すぐさま呼び出して懲らしめようとしたが優しい友人にとめられた。本当に友人は優しすぎる、そう叱ると友人が「お前と二人っきりになりたい」と誘ってきた。なんて可愛いんだろうか。思わず抱き付けば、筋肉が落ちた柔らかい身体に歯を立ててしまった。反省だ。 それにしても最近の日向はよく泣くなあ。 「ぁ、」 「…………」 2015年8月22日 ――――夏休みに入った大学のおかげで誰にも邪魔されずに家に籠れた。いや間違えた、奴以外には邪魔されずにだ。 まるで夫気取りの奴の態度に寒気がする。今日も今日で高校の時の制服を持ってきていた。どうやら二人っきりになったら着せるつもりだったようだ。そんなの許すわけにはいかない。 しょうがなく今回だけ奴と和解することにした。服のセンスは似ているようだから。 恥ずかしそうにスカートの裾を引っ張る日向がとても可愛かった。ついでに写真を貰う約束をした。独り占めは許さない。 2015年8月31日 ――――最近友人の体調が思わしくない。特に腹痛が酷いらしくトイレにたびたび向かっている。まさか食中りかもしれない。 作った料理を食べてもらえないのは悲しい。それにしても男はずるい、あんな大きな手に勝てるはずがないだろう。温かいからってすり寄っていく友人を見ているとモヤモヤした。だから、ストレス発散のためにちょっと変わった体位を試してみた。泣いて喜んでくれた。うん、次も試してみよう。 2015年9月5日 ――――友人が初経をむかえた、そのせいで秘所を隠して泣いてしまった。申し訳ないのは、その姿に盛りはじめた男を止められなかったことだ。それどころか同じく襲おうとしてしまった。発狂する友人を見なかったら今頃血祭だっただろう。……洒落にならない、この話は止めておくことにする。日向に嫌われるのは本望ではない。 思えばここ一週間ほど体調がよくなかったのはそのせいか。 2015年10月8日 ――――二回目の生理が始まった。そのせいで身体が重い、気が狂いそうだ。 「これっ、お、おれの字……ッ?」 「…………」 2015年10月26日 ――――そろそろ良い頃合いだろう。友人も生理に慣れてきたようだし十分、俺も待った。もう誰にも渡さない 2015年11月3日 ――――あれほど牽制をかけていたのに男が抜け駆けしようとした。許さない 2015年11月8日 ――――はら いたい。はきそう。たすけて。 2015年11月17日 ―――― 2015年11月30日 ―――― 2015年12月2日 ――― 2015年12月5日 ―― 2015年12月28日 ― 2016年3月25日 ――――今日は人生で一番幸せな日だ。 「このページ……」 「しっかり読んでくださいね」 今まで神様なんて信じたことなかったけど誰かに祈りたくなった。さっきから隣で睨み付けてくる男なんて気にならなかった、今は日向だけを見ていたい。なんて愛しいんだろうか………この細い身体に赤ん坊が宿るなんて、本当に神秘的な事としか思えない。これから幸せな家庭を築いていこうと決心した。 そうなるとやっぱり男が邪魔だ。居なくなればいいのに。 「う、そ……だろ?」 「―――本当にそう思いますか、まだ読んでもらいますけど」 「…………」 2016年3月29日 ――――妊娠したせいか友人の食欲が異常なまでに落ちた。心配で仕方がない。どうにか林檎を無理やりにでも胃に入れさせたが、それも次の瞬間には吐いていた。いくら妊娠中だからって食べないのはよくない。子どものためにも食べてもらわないと……。バスケはもうできない身体のため退部届を出しておいた。 まだ日向のお腹は小さい、やぱり男性妊娠はケースが特殊なようだ。 2016年4月8日 ――――げんかいだ。おなかが いたい。なかになにかはいってう る とか かんがたくない。 2016年4月9日 ――――日向の様子がおかしい。呼びかけても答えてくれない……心配だ。 2016年4月12日 ―――――どういうことだ 2016年4月13日 ―――――日向が夕方まで目を覚まさなかった、隈が酷い。どうしよう……? 2016年4月14日 ―――――日向の腹の子ども、誰の子どもだ。俺の子じゃない。……誰だとったのは? ……嗚呼そうだ、奴は許さない。 2016年4月14日 ―――――俺は最低だ。カッとなって体調が悪い日向を犯してしまった、それも強姦に近いほど無理矢理に。そのせいで日向が気を失ってしまった。本当に最低だ……そう奴にまで罵られた。うるさい。俺だって後悔している。 ゆるしてほしい。目を覚ましたら友人の好きな物を買ってきてあげよう。笑ってほしい。 2016年4月15日 ―――――おかしいおかしいおかしい、目を覚ました日向が笑っている。 嬉しいことのはずなのに怖い。口では言えないが俺たちがやってることは最低なことだ、許されない、酷いことだ。決して強気で笑っていれる状況じゃない。はずなのに……日向が笑っていた。 でも可愛いから、いい。久しぶりに日向が幸せそうだ。こっちまで嬉しくなってきた。 2016年4月19日 ―――――恐れていた事態が起こった。日向が鼻血を出して倒れた。そのあと目を覚ましたかと思えば目を丸くして、こう言った。「なんで俺の下宿先にお前らがいるんだ?」 どうやら記憶が混乱しているらしい。今夜は早く寝させた方がいいかもしれない。 2016年4月20日 ―――――乳首から母乳が滲み出てきた友人が卑猥だった。思わず両手でつまんだら泣きだしてしまった。……申し訳ないことをした。でも身体が女性に近づいてきたため友人の身体は敏感だった。試しに面白がって唇でつまんでみたところ驚くぐらい暴れて、喘いだ。すると運悪くも帰ってきた奴が怒ってきた。しょうがなく和解することにした。乳房はふたつあるからこういうとき便利だ。 だがそのあと日向がまた意識を飛ばしてしまった。これは色々と言い訳したいが……とにかく手加減が必要らしい。さらしでも巻いておいた方が良いかもしれない。おなかの赤ちゃんのためにも、気を失うことが続くのはよくないだろう。 2016年4月21日 ―――――日向が起きない。どうしよう……? 2016年4月22日 ――――目を覚ました、けどなにかがおかしい。会話が噛み合わない。……教育学概論? 去年とり終えただろ、それ。 もしかすると俺を混乱させようとしているのかもしれない。レポート提出の関係で独り占めできると喜んでいたのに、こうなったら、もう一度躾なおさないと……。 縄、どこに仕舞ったっけな? 2016年4月25日 ――――友人の中で去年の7月4日が繰り返されている。四日目でやっとそのことに気づいた。……男や俺の勘違いなんかじゃない、日向は忘れたがっている。……この関係も俺や男の気持ちも、そして、赤ん坊のことさえも…。 させるわけない。俺の妻と子どもだか 「……ぃ、ひ……ヒぎ、ひ…ッ!」 「おい黒子! 一旦止めろっ日向が!!」 「怖いなら―――はじめから木吉先輩に優しくしないでください。僕たちだって、助けたかったのに……嗚呼、はい……。一旦止めましょう」 ぐるっと視界が回りはじめた。 地面が横に見えてきて吐きそうになり、体勢が整えられなくなった。すると耳をふさいでいたはずの森山さんが隣から肩を支えてくれた。文句も冗談も言わず、ただただ真剣に、支えてくれた手で背中を擦ってくれた。 森山さんの手の平は温かくて、彼とは思えないほど優しい手つきだ。それで安心できて―――涙が溢れた。 森山さんがウェイトレスに頼んでくれていた熱めのタオルを受け取って、目元に当てた。じんわりと眉間の痛みをほぐしてくれる温かさのおかげで、涙はどうにか止まってくれた。浅い呼吸が白い布に吸い込まれていく。嗚咽が混じるたびに背中を擦られ、そうしているうちにやっと深く息を吸い込めるようになった。 周囲の音に耳を傾けれるほど落ち着いてくると、ふと笠松さんが「無理すんな」と新しいタオルを差し出した。 声につられて顔を上げると、目の前に突き出されたタオルがあった。あんなに女性が苦手で解決しようがない笠松さんが、ウェイトレスに手渡してもらったものだ……。止まった涙にはもう必要ないタオルだったが、彼の優しさを無化にできなくて、お礼を言って受け取った。 「……あの」 黒子が話しかけてきた。 「すみません。……心のどこかで主将は覚えてるだろう、そう勝手に思い込んで、事を急いでしまって」 「―――――」 俺は返答ができずにだんまりを続けた。赦そうかどうか、に迷ったわけじゃない。黒子は俺を嫌っているから意地悪であんなことを言ってきたというわけじゃないと知っているし、それに彼がそんな性格じゃないとわかっている。俺自身は黒子を鼻から悪だと決めつける気はさらさらない。 しかしいくら俺が黒子の台詞に応じるように、 「気にするな俺の責任だろ」 そう軽々しく救いの言葉を口にしたところで事態はうまく収束するわけじゃない。当事者は目の前の黒子じゃなくて、この場にいない二人の男なのだから。 テーブルの上にはタオルが二枚とお冷が四つ。この状況で喫茶店に長居をしていると営業妨害になるから追い出されるぞ、と喫茶店でアルバイトしたこともあるという森山さんが助言したことによって再度注文をとることになった。俺は気持ちが悪いため辞退させてもらったが、笠松さんはコーヒーゼリーのパフェを、森山さんは紅茶のシフォンケーキを、黒子は胃が小さいために俺と同様なにも頼まなかった。頼んだものが届いて森山さんのナンパがまた失敗し、笠松さんがそれを諦めた眼で切り捨てて、一息吐けはじめた頃にはなしは再開された。 コーヒーゼリーが思った以上に苦いらしく泣きそうになっていた笠松さんが、お冷を飲み干し、不意に話しはじめた。 「逃げんな日向――大丈夫だから」 「ン、なこと……いわれたって」 あんたンとこと俺のところじゃ話の前提が、まったく違うだろう。 そう抗議する為に俺は、笠松さんが顔を上げるのを待った。しかしその笠松さんの表情が暗い。――そういや笠松さんは自分から望んで被験者になったといっていたが、それはどうしてだったのだろうか? 彼の性格から考えて子どもが欲しいと率先して行動するとは思えない。だがもし仮にこう考えてみたら……その、自分にも周囲にも厳しい笠松さんだが、そのわりに仲間として受け入れた人間が危険な目に合うと、己の危険を顧みずに捨て身で助ける節がある。もしかすると……高尾の身代わりになりにいったんじゃ……いやいやいや! そうさせるほどには、笠松さんと高尾は仲良くないはずだ。一緒に話している姿を見たことは片手で足りる回数だし。じゃあどうして笠松さんは、苦しい思いまでして男性妊娠の代役をしたのか。 わからない……暗い顔をした笠松さんを見つめた。 ふと横槍を入れる存在が現れた。 「だから言っただろ日向順平?」 「森山さん……」 「高尾と日向は仲良くない、しかしある意味、仲良しだ。――先週会わせたのだって互いに思い出してもらうためだし」 「え、高尾も……?」 「いや。あいつの場合は……その、な……退行というか」 中学の頃に記憶が戻ってるんだよ。緑間真太郎に出会う前の、あの頃に。 そう言った森山さんは、それから何も言わなくなり無言でケーキを口の中に詰め込むばかりだった。……俺は何も聞いてない。うぐうぐと泣きながらケーキを食べていたのだって知らない。だけどその姿をみて、「俺はどれほどこの人たちに迷惑をかけてきたんだろうか……」と耐えられず一緒になって泣きそうになったのも事実だ。 テーブルの下で森山さんの手をそっと握ると、握り返してはくれなかったが振り払われることもなかった。 「主将」 後輩の声に俺は鼻を啜りながら顔を上げた。黒子の強い目が俺を見つめていた。もう、怖いというより……申し訳なくてしょうがなかった。 しっかりと俺も見つめ返して答えた。 「どーした」 ――この顔に表情を出しにくい後輩にどれだけ迷惑をかけたのだろうか。 無表情がテンプレートの黒子が、顔を顰め、瞳を濁らし、拳を強く握るまでどれほど、そう……どれだけの回数を繰り返したのか。この今日という、7月4日という日を。 ふと黒子が喫茶店を切り裂く、鋭い声色で、告げた。 「選んでください。伊月先輩か……それとも木吉先輩か」 「は、ぁ?」 突拍子のない選択肢に間抜けな声が出た。ありえないぐらい困惑した自分がいた。 「ななななに言ってんだよ……」 ふざけてんのか、と尋ねた俺にたいして黒子はその何倍も真剣な表情で首を横に振った。 「時間がないんですって、いまの主将には」 ――――チリンチリーン 声を荒げた黒子の台詞が喫茶店のベルに遮られた。黒子は自分の声量が著しく大きくなっていたことに気づいて、咄嗟にトーンを落とした。そうだいくらこの喫茶店が中部地方にあるとはいえ、俺の知り合いがいるかもしれない。それにもっと危惧すべきは黒子たちの知り合いがいることだ。……居ても困るのは俺だが、黒子のこれからの大学生活で「男性妊娠した先輩いるらしいwww」と笑われるようなレッテルを貼らすわけにはいかない。 すこし落ち着いて黒子が口を開いた。それでも内容は同じだった。 「同じことを繰り返しますが主将には時間がないんです」 「なんでだよ?」 「お言葉ですが、主将は記憶を繰り返して100回目。――先輩方が我慢できると思いますか?」 「……それは」 「仮に我慢できたとして、思い出せない主将に腹を立てないという保障はないんですよ」 ――まるで夢見ごとのような話だ。 こんなに必死になって心配してくれている後輩が目の前にいるのにもかかわらず、俺は不謹慎にも呆然としてしまった。むしろしょうがないことなのかもしれない。だって考えてみろよ……どこの世界に、昨日まで幼馴染だと思っていた男と恩人だと思っていた男に監禁される末路があるって信じられる? ざけんなよ……。そんなメルヘンは最悪だ。それなら結婚できなくても子どもができなくてもいいから、平穏に暮らしたいに決まってる。平凡でいいんだ。そこら辺にいる出世のできない冴えないサラリーマンでいい、だから、その……お願いだから――自由にさせてくれよ。 こんなに俺が悩んでいても世界は刻一刻と進んでいる。 新規の客がウェイトレスに連れられて席に着いた。高校帰りなのだろうと思われるお揃いの短いスカートに大きめのカバン、そして黒髪をポニーテールにした女子の二人組だった。 (嗚呼……あの制服どっかで見たことあると思ったら、誠凜のやつに似てるんだ) 納得していると黒子の声が耳に届いた。 「どちらかを好きになればいいんです、両方拒絶するから失敗するんですよ」 俺の視界の端で先ほどの女子がスマホをいじっている。何か面白いサイトでも見つけたのか友人の服を引っ張っていた。一緒に画面を見ながらとても楽しそうに笑っている。 (俺だって高校の時は、あんなふうに楽しかったのに……いまは、どうして) 眦に涙が溢れてきてポタポタと眼鏡に落ちた。黒子は窓の外を気にしているために泣いてる俺には気づかない。 「伊月先輩だったら主将を傷つけません、絶対に。ずっと主将を守ってきたんですから……その点、木吉先輩は」 喫茶店の来客用ベルがまた鳴った。新規の客がまた増えるらしい。……歪む視界のなか、心まで荒んでいくのがわかる。周囲の客のすべてが羨ましくてたまらなかった。夕方に喫茶店に訪れるという余裕も、楽しそうな会話も、帰ってからも待ってくれている温かな家があるということも――全部ぜんぶ。俺が帰ったところでそこは木吉と伊月が待っている家でしかない。俺がその家で母親になるなんて……到底考えられなかった。 ふとそのとき俺はおかしいことに気付いた。 さっきの日記に関することだ。一度気になると居ても立っても居られなかった。 目の前でチラチラと忙しない黒子が話しているのをやめさせ、俺は尋ねた。 「なあ黒子」 「もしも――――なんですか?」 「あの日記って誰のだ」 「……どうしてそんなこと聞くんですか」 あからさまに黒子が動揺した。 その反応を見て俺は確信する。……何か隠しているな。 「あれに俺の赤ちゃんの親云々が書いてあっただろ。そこが知りたい」 「知ってどうするんですか?」 「それは――」 「それは伊月の日記だよ」 テーブルに寄り添うようにして立っていた木吉が、やつれた顔で静かにそう言った。 * 木吉はその日、暇を持て余して困り果ててしまっていた。 決勝進出が叶わなかったせいで引退が決まったからだ。来年に向けて体制を整えるという意味で木吉たち三年生の参加はリコにとめられ、実質上の引退が言い渡された。全国大会二連覇を掲げた誠凛バスケ部の呆気ない末路のせいで、彼は放課後という自由時間を手放しに喜べなかった。 それはチームメイトの日向も同じだ。 よくいるバスケ馬鹿である。好きで好きでバスケがやめられずに捨てれない、諦めの悪い、そんなバスケ馬鹿。馬鹿に付ける薬はないとはよくいったもので、馬鹿がふたり揃うと話題はバスケが必須だった。 「最後の3Pとか最高だったのによォ……」 「なるほど。たしかに日向のシュートは桜井より、フォームが良いよな」 「ンだよ――今日はよく褒めるな。きもちわりい」 「感じたことを言ってるだけだからな、日向はほんと尊敬するに値するよ」 木吉は日向の怪訝そうな声色を笑って吹き飛ばした。他人ならムッとして言い返すような台詞でも、木吉は気にした様子もなく窓の外を見ながら許してくれた。 彼がそうするだろうということは、日向にはわかっていた。木吉は穏やかな人間だ。 バスケをしている時はとくに真正面からぶつかってくる真摯な男。それ以外は腹に一物隠した侮れない奴だがおっとりとした穏やかな男。――それが日向を含む周囲の評価だった。 木吉は窓の外に後輩を見つけたのか、ふと右手を大きく振って、日向が驚愕するぐらい声を張りあげた。 「かがみ――っ!! 1on1するんなら、俺も――」 『木吉先輩ちょっとやめてください!! いま火神の罰ゲーム中で、刑執行してるんです!』 「おお降旗もやるか――?」 『俺も外周なんでほっといてください!!』 新主将の嘆きの本音が漏れたところで木吉がやっと、「そうか残念だー!」と諦めた。窓についた落下防止用の棒に手をつきながら、もう一度。 「がんばれよ――!!」 そう声をかけて戻ってきた彼に、日向は心底呆れた視線をくれた。なにしてんだ、と訊ねると木吉はなんてこと無いように言った。 「後輩との親交を深めてた」 「はあ……そうか」 つっこむのも疲れて日向は頷くだけ頷いた。気力があれば後頭部を叩くところだが、今はそんな体力はない。おかしな話だ、だって今日は、バスケなんてしてないのに。どうしてこんなにしんどいのだろうか――そこで日向は気付いた。バスケをしてないからしんどいのだ。 バスケ馬鹿はバスケをしないと死んでしまう。 同じことを火神が言ったとしたら笑えたのに、そう感じたのは情けないことに自分自身だった。分かったところで恥じるわけでもないぐらいにはバスケが好きで好きで……これからの毎日がバスケ漬けから受験漬けになるのだと考えると、そりゃ気が重いはずだ。 「そーいや木吉」 「なんだ?」 机に顎を置いた格好のだらしない日向の傍に木吉がやってくる。 「大学決まったんか?」 「いや――ばあちゃん達も気にしなくていいって言ってるからな、全国的に管理栄養の学部学科があるところで考えてみようと思う」 「え、じゃあお前……家、出るのか?」 「ああ」と言いながら同じように木吉が机に顔を乗せてきた。目と鼻の先ほどの距離に現れた顔に驚いて日向は、彼の頭を右手でギリギリと掴み上げ、驚かすな近いんだよダァホ、と罵った。 声を上げて痛がった木吉が離れるのを確認してから手をどけた。 「いきなり手を出すのはダメだって、習わなかったのか!」 「安心しろお前にだけだから。お前みたいな馬鹿だけにだから」 「ひどいなあ……」 ぶつぶつ言いながら患部をさする木吉にざまあみろ、と日向は黒板を見ながら吐き捨てた。 すこし感傷的な気分だった。誰のことかって木吉のことだ。日向は無意識のうちに彼が家を出ないと信じていた。誠凛に来たときも祖父母のために実家通いをしたくてという理由で、こんなバスケ部がない高校を選んだぐらいで……知らず知らずのうちにショックを受けていたようだ。 この馬鹿な男が誠凛にバスケ部がないということを知らなかったおかげで、誠凛にバスケ部ができて――仲間ができて――バスケを好きでいられた。一時でも全国制覇という夢を叶えられた。嗚呼ほんとに感慨深い……。 日向は自分でも驚くほど素直になって口を開いていた。 「なんだ……その……あれだ」 「ん。どうした、日向?」 「――――ありがとうな」 「…………」 そのときだった。木吉に変化があった。 ムクムク。と、ものすごい勢いで木吉のなかに温かいものが込み上げてきた。思わず手が震えた。ついでに口元がヒクついた。 視界のピントをちゃんと合わせて木吉が日向を見てみると、彼の横顔が照れたように耳が赤くなっているのが見える。……嗚呼日向は今照れてるんだ。そう気づいたときは殊更にニヤけるのが止まらなかった。 木吉鉄平はごく最近気づいたことがある。 それは他の誰にも言ってないことだし、何より認めがたいことだった。 (やっぱり……日向が好きだなあ……) 気づけば茫然とそう感じていた。根拠はない、しかし気のせいとは言い切れない確立した感情だった。もっともそれを日向に伝えようとは思えない。なぜなら彼は女々しいのが嫌いだというなんとも頑固な人間で、仮に木吉が告白したところで「ふざけるなよっ!」と憤慨するか、もしくは、「はァ……?」と怪訝そうな顔をするのが目に見えていたからだ。 しかしこのまま行動せずにいても、この魅力的な男はきっと誰かのモノになってしまう。――そう考えると手を出さずにはいられないというのが人間の性であって、木吉は日向に勘付かれない程度の接触を何度も行ってきた。だがすべて撃沈。本当に日向という男は鈍感な男だった。めっきり自分に向かう好意には疎く「うぜェ」とすべて切り捨ててしまう。それだけ純粋だと恋人ができるのはまだ先のようで、嬉しいやら悲しいやら……。 眼中にないと言わんばかりの態度に木吉は諦めつつも、歯止めがかかるからありがたいことだし……と溜め息を吐くばかりだった。 ――それが今はどうだ。 「…………ひゅうが」 思わず渇いた唇を舌で舐めた。言葉が喉に引っかかった。 「ンだよ―――見んなよ」 日向は顔をすこし背ける。木吉は見慣れない日向の横顔に見惚れた。 (見るに決まってるだろ――そんな表情されたら) 情けないことに抱き付きたくなった。もう半ば諦めかけていたのにこんなチャンスが与えられたようなことをされると、誘われていると勘違いする。そういえば病室で全国制覇を夢で片付けようとした自分にも彼は、『諦めるな』と腕を引っ張ってくれたではないか。 (まだ諦めなくてもいいよな、俺を選んでくれるんだよな――その気にさせたのはお前だもんな。なあ日向――?) すると木吉の胸の温かいものが広がっていった。それは幸せな感覚だった。まるで幼いころに風邪になったときに見た夢のなかにあった父親と母親に抱かれたときのソレに近い……。記憶があるときはすでに仲違いを起こしていた両親には微塵もなかった”愛情”――それが今こんなに近くにあるなんて。 木吉は静かなる歓喜を抱いて、日向の持たれている机に足を向けた。机の上で肘をついて他所を向いていた彼は木吉の足音に驚いて、迷った挙句顔を上げ、木吉と視線が合ったことに肩を揺らした。 木吉の胸の喜びなんて微塵も知らない日向は純粋だった。純粋は罪である。殊木吉においては冗談にならない犯罪行為で、言い訳なんて、聞いてはもらえない。 「日向はどうするんだ?」 木吉の質問が普通だったことにさっきのことを訊かれないとホッとした日向は、そのまま真実を伝えた。 「神戸の大学に進むつもりだ。兵庫のあの地方にな、良い教授が居んだよ」 「それはカッコいい先生なのか? それとも可愛いとか――」 「はぁぁぁぁ!? あったまおかしいんじゃねーの!? 研究内容が気になるんだっつーの!!」 「……そうか」 よかった、と口にした木吉に気づかない日向はぶつぶつとまだ文句を言っていた。やれ不純な理由で選ぶかクソ、やれそんなの森山さんぐらいだろ、といった具合にヒステリックに愚痴を漏らした日向は、木吉がそんなことを尋ねた理由を深く考えていなかった。むしろいつもの意味不明な天然発言だと片付けてしまった。 それがまさか木吉の進路を変えるとも知らずに。 ふと、不機嫌になってしまった日向に声がかかった。 「日向」 「ンだよっっ!!?」 キレ気味に振り返る日向。また目と鼻の先に木吉が居た。 「うおッ!? っだから、テメーは!!」 手で突き返そうと伸ばした腕が掴まれる。うわっ、と前のめりになった日向を木吉が胸の中に捕らえた。圧迫される感触は制服のごわごわとしたソレだと教えてくれて、今抱きしめられているんだ……と日向に自覚させた。一瞬遅れて焦った日向が腕を払って離れようとしたが、掴まれた手の握力に負け逃げれないことを悟る。 「なにし、」 こうなったら口で文句を言ってやろうとした。 「離しやが――」 「もしも俺が大学に受かったら、プレゼントが欲しいんだ日向」 「はあ!?」 素っ頓狂な声を上げてふざけるなと言ってやるつもりだった日向だが、続きを口にするより早く木吉が抱きしめた。抱き殺されそうな腕力に怖くなった日向は「ぅぐッ」と唸りながらギブアップを言った。 「わーった! わーったから!! 離せぇ、くるしい、死ぬ――っ!!」 「ほんとうかあ日向!!」 いつもの調子で木吉が嬉しそうな声を出して、すぐに腕を解放した。コロッと変わった態度になんとも言えなくなりながら一度した約束を破るほど男を捨てちゃいない日向は、「で?」と促した。 圧迫されたせいで喉がおかしい……と首を手で押さえながら唸っていた日向に、木吉がニッコリと笑って言った。 「愛してくれ」 唖然とした日向。とにかくポカーンとして、一分、二分、三分――過ぎてからやっと声が出た。 「ふざけてんのか!?」 「大真面目だぞ~ひゅうが」 「どう考えてもふざけてんだろ、ゴラ!!」 気合い入れて損したわっ! と噛みつく勢いで声を発する日向。たいして、木吉はにこやかなままだった。 「俺は愛されたことないから愛されてみたいんだ」 「――――っ!!」 ハッとして日向は口を噤んだ。しまったと表情が語っている。 「記憶にあるときは両親、もう仲悪かったしな~。ばあちゃん達も孫の前で喧嘩はしないが仲良しとも言いにくいし、というか悪口すら言ってるときあるしな。周りの環境ってのが関係してるのかわからんが、幸せな家庭を見たことがないんだ―――なあ日向」 ”愛されるってどんな気持ちになるんだろうな” にっこりと笑顔の木吉が訊ねた。その顔には杞憂することを望む要素は見当たらなかったが、それでも軽く受け答えをしてしまった日向からすると、なんともばつの悪い台詞を吐かせてしまったと後悔した。 「…………」 無言になった日向を見た木吉は首を傾げてから、叶えてくれるか? といった表情をした……ように日向には見えた。まるで雨の中で迎えを待つ子どもが強がって笑っているようなヘタクソな笑顔に、何も言えず静かになってしまった。口を開きかけて止め、俯いてから唇を噛みしめ―――日向はふと椅子から立ち上がった。 キイィと甲高い音が椅子の脚から響き、木吉がはてなを浮かべていると、俯いたままの日向は木吉の正面に立った。 「どーした日向?」 訊ねながら木吉は反省していた。 (もしかして怒ったのか? やっぱりまだ難易度高いか――もっと段階踏んでから) すると木吉のウェストに何かが絡みつく感触と、胸部に伝わる温かい感じがあった。吃驚する木吉をよそに、彼に突然抱きついた日向は恥ずかしいのか顔を彼の胸に押しつけたまま、呟いた。 「―――――こういうこ、ことだ、よっっ」 「……えっと?」 驚きすぎて反応できない木吉が辛うじてそう返すと、表情は見えないが耳の真っ赤な日向が腕の力を強めた。ぐえっと情けない声を木吉が上げた。 「ひゅ、が……ちょっと、強烈すぎ――」 「愛されるってのは俺にもわかんねえけど……その、あれだろ」 「ぅん、わかった、わかったから離そうか、ッ……!」 そう音をあげる木吉は、つい日向の声を聞き逃しそうになった。しかし寸でのところで耳にしっかりと残した。彼の不器用な優しさに満ちた台詞を。 「痛いぐらいが生きてるって感じするだろ――俺なら、これぐらい好きだって……ギューってされたら嬉しい。――それって愛されてるって感じてるからじゃねえの?」 そう言い切ったときにはもうすでに木吉の元から離れていた。ふらふらと後退った日向は、木吉の方を見ないまま机にかけた自身の鞄を掴み、肩にかけて、次の瞬間には駆け出した。 「ちょ、ひゅ――」 木吉が名前を言い終わらないうちに彼は教室の前のドアから外に出た。その逃げ足の早さにビックリしていた木吉は胸部の甘い締めつけを感じたまま、不意に笑いだした。 誰もいない教室でただ一人。 「はは………ははは……」 愛について、まだ自分自身もわかってないといいながら、教えてくれた”友人”を思い浮かべて。 「はは……っ」 木吉は、まだ受験が終わった訳じゃないのに―――と思いながらも、猪突猛進な日向のその抜けたところが愛おしくてたまらない。 苦しいほど自分を抱きしめてくれた彼を匂いを思い出して、木吉は制服を持ち上げ、鼻に持っていき……鼻孔をくすぐるほのかな匂いに口角を上げた。 すんっ、と嗅いでいたがその次には欲が出て、胸いっぱいに吸い込んだ。そして身体じゅうに広がる彼の体臭に頬を染めた木吉は、あらためてその胸にある想いを口にした。 「愛してる――――日向」 痛いほど身体に教えてくれた方が好きだと打ち明けてくれた彼のために、愛されると嬉しいと言ってくれた日向のために、木吉は人生を骨の髄まで彼にささげようと決心した。 その日は、おそろしいほどの快晴だった。 「…………」 黒子テツヤは、声が出なかった。 人間の生死を審判する死神のように生気のない能面を木吉は張り付けて、両眼でしっかりと日向をロックオンしていた。ほかにあるすべての物体は背景に過ぎないと考えているような眼は、案の定、彼以外に向けられることはない。 心の中になにもない―――彼が、日向順平が、木吉の世界の中心を築いている。 すると木吉が緩やかに顔を動かす。はっ、と思ったときには黒子と視線が合っていた。 その眼をどこかで見たことがあると黒子は感じた。そして気づいた、そうだ、あれは魚屋だ。海に面していない地域の小さな店には新鮮な魚介類などなく、かろうじて生臭いだけで済んでいる商品しかない。――その死んだ魚の眼にとってもよく似ていたのだ、木吉のそれというのは。 ……ぎくり、として椅子の上で後退りをした黒子。そんな彼に視線だけをくれる木吉は無言の威圧を与えてから顔を戻した。 「帰ろうか日向――遅くなると日が暮れちゃうからな」 そう言いながら木吉は右手を伸ばした。日向は思わず笠松の方を見るが、彼は読めない顔で口を閉ざしたまま何も言わない。 「う、う……」 日向は恐怖で動かない身体をそれでも必死で後退させる。その腕が掴まれた。通路側に座っていたのが仇となって左側に引きずり出される。抗おうとして自棄になった日向が、自分の腕を掴んだ木吉の掌に爪を立てて反抗する。 「は、離せ……はなせ―――!」 言うやいなや日向が振りあげた右手が、不意に木吉の頬を引っ掻いた。 軽く触れたはずの頬に赤みが差す。接触した箇所から、つうーっ、と血が垂れていった。軽く日に焼けた肌が傷付けられた光景に、戸惑った日向の反抗が止まる。 その一瞬の隙を見逃さなかった木吉は、滴る血を気にした風もなく彼の腕を掴み上げた。 「帰ろう――」 ただただ笑う木吉の眼が、泣いているように見えた。その地点で日向の負けだった。 一連の流れを見ていた森山は喫茶店から出ていく背中を見ながら、深くため息を吐いた。十二分にため息を吐ききったあとは手をテーブルの上に出して、震える指を曲げ伸ばしし、どれほど自分が緊張していたのかを考えた。 立つことを最後まで拒んだ日向の背中を押したのは、まぎれもないこの森山だった。精神的なものじゃない。物理的な……動作として押してやったのだ、日向の背中を。 さっさと行けというような行動に、日向は驚いて振り返っていた。その顔の蒼白いことといったら――可哀想だと思わないわけではない。 でも、これが最善の方法だったのだ。すくなくともここに居る三人はそう思っていた。 「これで良かったんだよな――?」 「そうだ」 「……よくありませんよ、僕は伊月先輩だと言いました。木吉先輩とは言ってないです」 歯切れの悪い台詞の二人にたいして、黒子ははっきりと言い切った。 その眼には苛立ちと戸惑いが共存していた。 元から異様に伊月推しだった彼だからこそのその態度に納得はいくが、あまりにも鼻につく差別に思わず笠松は訊ねてしまった。 「何を根拠に言ってるんだ? 俺が言えたことでもないが、人の幸せは他人がどうのこうの言えるもんじゃねーだろ」 と攻め立てるように言うと、黒子はなんて事の無いような態度で、 「木吉先輩は、人が傷つけられる――好きな相手が傷つけられて喚く姿を見ることで、生きていることを実感するような人です。主将の身体には複数の傷跡があったでしょう……ご存知ですよね? アレを見ておいて否定はできませんよね? ――それならまだ、帰る場所として温かく迎えてくれる……伊月先輩を勧めますよ」 と言った。当たり前でしょう、とでも付け足したい顔をして首を傾げる後輩に、森山は、彼も疲れているんだろうな――と察した。そして同じように疲れている自分に問いかけてみる――お前ならどっちだ? 不思議なことに答えは出なかった。 暴力男か過保護男なら……簡単に答えは出せるはずなのに。 そこには今まで対戦してきたバスケでの誠実な態度や純粋に楽しもうとする姿、試合後に見せる仲間との確かな団結力が絡んでいた。単純にあの男が――木吉という男が手を出すようには思えなかった。 そしてまた同じように笠松にも訊ねてみた。 「笠松はどっちだ?」 「はァ……?」 主語のない森山に眉を寄せる笠松は、苛々としながら隣の黒子を見ないようにしている最中だった。もしかすると相性が合わないのかもしれないな……。森山は喧嘩に発展しないようにと、笠松の注意を自分に向けさせた。 「お前なら伊月俊と木吉鉄平――どっちが日向にとって幸せな相手だと思うんだ?」 その言葉に笠松は空中を見ながら答えた。 「木吉だろ、純粋な恋心云々でいったらあいつに敵う奴は居ねえよ。傷付けた、って結果論だけに焦点あてるのは安易すぎねえか――ひたむきとも言えるだろ。つまりあれだ。俺は木吉の根性が気に入ってる」 「買い被りすぎじゃないですか、笠松さん? ――たしかに木吉先輩は頼れる先輩です、ただし主将が絡みさえしなければ、という注意事項が入りますがね。そんな人と比べるのは、この状況においてどうかと思いますよ。いささかも安心できる要素がないですから」 「うるさいぞ、黒子―――知ってるからな俺は、お前が推す伊月は、弱ったところにつけ込むのが上手いってことをな。俺にはよォ……良いとこどりの漁夫の利ばっかの男が日向を幸せにしてくれるとは、全然思えねえンだけど?」 「それは―――そういうことも、戦略としてあるでしょう」 「流石は全国制覇のPGサマってか? 試合で裏を掻いて、今度は好きな相手の寝首を掻こうって? はははっ――ンなはなしあってたまるかよ……同じポジションの俺ですら寒気するぞ。あれが正気だってんなら、とんだペテン師だ。それこそ木吉よか随分タチ悪ィ」 「どうせ黄瀬くんに似ているから木吉先輩を推してるんですよね、わかりやすいです」 「生憎あいつは俺一筋なもんでな。幸せっちゃ~幸せだぜ。……それに比べてなんだよ、伊月は? 同じPGとして言っておくが――ははっ、あいつは豹変するぞ。絶対な」 「…………」 黒子はその嘲笑には反応せずに、ひらすら窓の外を見続けている。それはどれだけ森山が視線を追おうとも理解できない、虚空をじっくりと辿る仄暗い眼だった。 木吉鉄平という男が苦手だった。 無欲な人間で人畜無害だという顔をして、周囲に溶け込んでいく。不条理に文句をすぐ零す日向にとって、羨ましい限りの人間だった。 日向は目に見えて木吉を苦手がっていた。――ならば伊月はどうなのだろうか? 彼にとって伊月とは腐れ縁の親友以外の何者でもない。相談役としてこれほど打って付けな相手はいなかった。きっと外見からして一般的には木吉の方が相談相手に向いているのだろう、そう日向は納得していたが、だからといって木吉に相談を持ち掛けようと思ったことはなかった。木吉が苦手だから――という理由だけではない。今までの伊月の真摯な態度が日向の中に内在化されていることで、”頼れる人間は伊月だ”とインプリンティングされていたせいだ。 ……困ったらまず、伊月に相談しよう。 ……こんな楽しいことがあった、んじゃ、伊月にも教えてやろう。 木吉がこんなこと言ってた、だから――あれ? ふと日向は気づいた。 (……だれに相談、すればいいんだ――?) 日向は引き摺られる様に連れ出されていた。喫茶店に面している大通りを日向は喫茶店から出てすぐに歩かされ、気づけば見知らぬ道筋に出ていた。無言で引っ張る木吉に向かう先を尋ねれるはずもなくそのまま誘拐させる。これは比喩じゃない、れっきとした誘拐だ。むしろ強姦罪でも付けた方が良いかもしれない。被害者はもちろん日向自身――しかしお腹にいる赤ちゃんの親を犯罪者にするのは、どうしても阻まれた。 さっき喫茶店での木吉の発言を信じるとすれば、あの日記は伊月の物ということになる。主語に当たる部分はすべて伊月という名目でリピートされる。 最初に日向にキスをしたのは、木吉。 手を出したのも、木吉。 我慢できずに動き出したのは、伊月。 下宿先に夫気取りでやって来たのは、木吉。 コスプレを強要したのは、木吉と伊月。 初経だというのに手を出したのは、木吉。どうにか止めたのは伊月。 そして子どもをつくったのは……いづき、じゃなくて――木吉? 「…………」 ”じゃあこの子の父親は、木吉ってことか?” 「ぁ」 突然立ち止まった木吉に声が漏れた。日向が顔を上げると、木吉はなぜだか疑いの眼差しで彼を見ていた。やがて木吉は、 「日記は伊月の物だ。ってことは俺の子どもが日向のお腹の中にできた、でも、それは今どうでもいいんだ――」 と唐突に言った。 「……は?」 日向の戸惑いを無視して、木吉は続ける。 「あいつと俺とで、ちゃんと話したんだ、お前――日向のことを」 「お、おう……?」 「同じことを考えてることがわかったんだ。……わかるだろ? 俺と伊月は随分と思考回路が異なってるが、殊日向に対しての想いは、似てる――」 「…………」 反応に困る日向は無言を貫いた。いや、この告白をどうしろと――そう困惑しているうちにも、木吉はお構いなしに話を続ける。 「本当に俺はどうにかしてる……わかるんだ、分かるんだ――うん。でも……無理なんだって、なあ日向?」 「ンだよ」 木吉の眼が下がりきった眉のしたで、もがいていた。日向が、驚いて目を見開く。 「我儘ばっかり言うから、欲張りな日向は――ひとりじゃ足りないだろ? だから三人で愛し合おう」 木吉が瞬間的に動いた。間合いを取って、手の届く距離にあった日向から離れる。驚く日向の視界に影が映った。背後を取られたッ――と察するより早く、背中に何かが張り付いた。どんどんそれが広がって首筋を辿っていく。 「ひっ、」 悲鳴を小さく上げる日向を、嘲笑うように背中から聞き慣れた声がした。 「おそいよ順平」 「い、いづき……」 「昔みたいに俊って呼んでもらいたいな」 「え~それ、せっこいぞ伊月、俺だって下の名前で呼ばれたい」 「木吉と俺の経験の差ってところだ」 「してることはどっちも、エグいと思うけどなあ――」 納得いかない様子の木吉は文句を言いながらも近寄ってくる。 日向は恐怖に顔を歪めて、逃げようと身体を仰け反らせた。しかし背後の伊月が邪魔して身動きが取れない。それどころか、伊月は首筋を指でくにくにと押して遊びだした。 「ちょ、なにしっ、」 首の血管が伊月のすらっと伸びた指によって浮き上がったり、沈んだりを繰り返す。 いつか突き破られるんじゃ――と日向が息を詰めた。しかしそれを見て、彼を囲んでいるふたりの狂った人間は愉快そうに笑いだした。可哀想なほど怯える日向に四つの腕が絡みつく。 この異様な光景を目撃する人間はいない。そのあたりを考えるに、流石秀才の二人だと感心せざるを得ない。日向が怪しまない程度の通りでわざわざ人通りのほとんどない道を選んだのだ。 助けを求めるか細い声ですら出ずに、諤々と膝が竦んでいると。そんな日向の耳元で囁くように、 「――あの日記は木吉のだよ」 と伊月が告げた。 そうしてから、彼は指で押していた箇所を舌で舐めはじめた。丁寧に執拗に……まるで子猫が飢えてミルクを求めたように、何度もなんども――。時には舌先を尖らせて抉るようにしながら、伊月は愛しい男を堪能していた。 日向は日記にあった行為の片鱗に直面し完璧に固まっていた。そのために気づかなかった。己に貪りつく男の飢えた眼がどれほど狂気に満ちたもので、また恍惚とした表情でしゃぶりついていたのかを。 上からその様子を見下ろしていた木吉は無言で、 (やっぱり、ずるっこいぞ――伊月は) と睨んでいたがすぐに飽きて、同じように日向の喉仏に噛み付いていった。 がぶり――ッ 「というわけで、お前の父ちゃんはエイリアンだ」 「なるほど。……わかるかッ」 短髪の黒髪の男がおしまいおしまい、とまるで紙芝居のような台詞を口にしながら話を終わらせようとする。 それを見ていた男にそっくりな顔立ちの少女が、それでも長い後ろ髪を降りふり「待って!」と食らいついた。 男より長い髪は彼女の自慢の髪型をしていた。なんせこの男が切ってくれたヘアースタイルなのだから、嫌いなわけがない。口にしたことはないが実は将来跡を継いでもいいかな~とすら思っている。最近の友達とのごっこ遊びも、もっぱら美容師ごっこだ。 そんな髪型が乱れるのも気にせずに少女は、続きをせがむようにして男の腕を引っ張った。 「つづきは、ねえ! つづき言ってくれよ!! 気になるだろ!!」 「気にしなくていいだろ、おい。――つか最近ますます俺に似てきたな……とくに口調とか」 「母さんといっしょはヤダ!」 「ンだと、ごら!!?」 も~怒ったから絶対に、ぜーったいに話さねえ!! そう言いながら洗濯物を抱えて立ち上がろうとした男、順平の腕にへばりついていた少女は負けじと力を込めた。順平の腕にやんわりと痛みが広がった。彼は内心、そういやそこ一昨日ぐらいに鉄平が噛み付いたところだったな……と長袖に隠れた傷を思い出す。 だから鈍い痛みが走ったのか、と納得していると奥のキッチンから声がかかった。 「母さん皿洗えたよ」 「早ぇーな平太、ありがとうな。ついでに悪いけど、こいつと遊んでやってくれると助かる」 「遊んでほしくない!! 平太兄ちゃんといると周りの人、うっさいもん!! てか俺は母さんにはなし、きいて――」 「そ~んな可愛くないこと言うと眼鏡取っちゃうぞ?」 平太とは違う高い声が順平の耳に聞こえた。ぎくっと怯えた少女の背後には、いつの間にか背の高い少女が立っている。ゆっくりと涙目で振り返る少女の眼鏡のフレームを掴んで、今にも取り上げようとしていた。 「ね、ねえちゃん……」 「コラ佐里やめてやれ」 「母さんが言うならやめてやってもいいぞ!! ん――メテオジャムはやめて! キタコレ!」 「お前は俊に日に日に似てくるな。顔は鉄平に似てんのに……いろいろ混乱するから、ヤメロ」 「えッほんと? 俊父さんに似てるか? 面白いか?」 「はいはい面白いおもしろーい」 目を輝かせて喜ぶ長女の姿にほとほと呆れかえる順平は、これから俊にはダジャレ禁止令を出そうと心に誓ってから、平太に一番下の妹を渡した。 「夕飯まで遊んでこい。近くにストバスあっただろ?」 「うん、このまえ黄瀬さんと緑間さん居たからわかるよ」 「じゃあ頼んだぞ平太。おい、佐里も行くか?」 「もちろんだ! 砂生が行くんだろ、俺もいく!!」 「お、おお……」 「だーかーら! お話はぁぁぁぁぁぁ!?」 年々過保護が悪化してきているような姉と兄を見ながら、順平としては既視感があると思わざるを得ないが、自分が止めればまあいいか――と納得した。 こんなに母親が娘を心配しているというのに娘は純粋なものである。名前がすべてを語るとは不思議だが、この砂生にかぎっては、その通りだった。素直にまっすぐに――ひたむきに努力する我慢強い子どもである砂生、彼女は三人の順平の子どもの中でも特に、”日向順平”に似ていた。容姿が似ているということじゃない、性格が瓜二つなのだ。……だからこそ心配になるというもので。 まさか近親相姦とかやめてくれよ―――。 まだ若干10歳の長男と8歳の長女を見ながら、早すぎる心配を抱くこととなった。順平はこれが杞憂であることを願わずにはいられない。 そんな彼の元に砂生の声が届いた。なぜか順平の恋愛事情を知りたがる砂生の、純粋な疑問を問う声だった。 「でも母さん、そんなことされて父さん達をよく好きでいれるな!? 俺だったらヤだよ!」 「……砂生はお兄ちゃん嫌い?」 「姉ちゃんのことも嫌いか――?」 「?」 よくわからない、と首を傾げる砂生。 そりゃ幼稚園の年長さんには難しい話だったか――と眉を寄せる順平は、本気で子どもたちの父親似が深刻であることに頭を悩ませた。 しかし一番悩ませたのは砂生だった。 「母さん……つらくない?」 砂生がいつの間にか順平の足元に戻ってきていた。そして自分のことのように辛そうに眉を寄せて、眼鏡の奥のつり目を下げている。その優しさが順平の心のヒリヒリと荒れた部分を刺激し、健全な人間の生き様を見せられた気がして何も言えなくなった。 少しの間、無言が続き……置き時計の秒針がいくつか進んだ。 すると突然笑い出す声がした。順平だった。 「心配すんな―――お前たちのおかげで、びっくりするぐらい、幸せだ」 大声で笑い飛ばす母の姿に砂生は目を見開く。そして同じようにニッと笑って、歯を見せた。 「で、最終的に俊父さんと鉄平父ちゃん。どっちがウソついてたの?」 「――ヒントはお前の兄ちゃんだよ」 日向はテーブルに座る男の子を指差した。 そこには、伊月そっくりの顔の子どもがニコニコと笑っていた。 「つまりどっちも嘘吐いてたってことだ」 そんな会話をされていたとも知らずに夕方。太陽はとうの昔に山に隠れてしまった頃。 父親たちは今日もまた、愛する日向の元に帰って来るのだった。 おしまい 以下、ネタバレ そういや皆さん、あの日記のこと。意味わかりましたか? すっごくややっこしいと思うのでヒントだけ書いときますね。 あれ――― 奇数日が 伊月 偶数日が 木吉 あと8日だけ 日向 長々とこのような薄暗い小説をお読みくださり、誠にありがとうござました。 2015/9/22