狙われてますよ、チョロ松さん!

白い光に中てられた、グラスは7つ。テーブルがあるのか無いのかも分からない暗がりに置かれている。 透明なそのグラスの中の一つだけに、同じく透明な実が入っていた。まるで林檎のようなハートを描いた断面の実。飲み込めば喉をすんなりと通り抜ける大きさだった。 そこに真っ赤な液体が注ぎ込まれる。暗がりではその色も定かではないが、さながら血液と寸分変わりはないようにも見えた。透明だった実は液体に溺れて姿を消す。一体どのグラスに入っていたことやら。 こくりと喉を鳴らしたのは誰だったか。 「じゃあ俺はコレ」 「えーずるいよ、僕もそれが良かったのに」 「これもっらい~」 「俺はこれを「触るな。ソレは僕の」……え」 「しょうがないから残りでいいよ」 ひと通り揉めたあと、一人ずつグラスを掲げていた。揉めたという言葉には似つかわしくないほど静かに、厳格に、大切に6つのグラスは各々の指に摘ままれた。 後に残ったのは一つのグラス。ふと誰かがそのグラスを床に投げ落とし、派手な音を立てて壊した。女性の悲鳴にも似た声。何かが泣いているようにも聞こえた。 それも無視して声がかけられる。 「幸多き人生を」 グラスに口をつけ、誰もが一斉に飲み干した。 ごくり。 なんというか最悪なこと続きだ。 もうすぐ勤めて一年のバイト先でリストラされた。戦力外通告によるリストラ―――アルバイト生は全員打ち切りって、僕しかバイト生居ないこと知ってるんだから要は僕が戦力外だったってことだろ! 腹立たしいことこの上ない。 気晴らしで入ったコンビニで、この苛々を消すために好きなものを食べよう、と思って唐揚げを頼んだ。 「すみませんカレーください」 「かれー?」 「……唐揚げでした! すみません」 という感じで言い間違えた。 はてなを浮かべた店員に対して、僕もはてなを浮かべて『コンビニって唐揚げなかったっけ?』と思っていた、その自分が恥かしい。顔から火が出るかと思いながらコンビニを後にした。 本当にイイことがない。だいいち大学受験のときからついてない。国立に通うつもりが脳の足りなささゆえに私立しか無理だったし。委員長キャラで頑張ってた僕が馬鹿だとか知られたくなくて、未だに誰にも行っている大学を教えられない所存で。どこか一ついいことがあるのが人生ならば、一体どこに良いことが落ちているのだろうか?疑問で仕方がなかった。 コンビニを出てバス停に向かう道のり。駅中にあるコンビニはまだ静かな方だ。帰宅ラッシュも過ぎたこの時間帯は歩きやすいし。 駅の階段を下りているとその壁に広告がでかでかと貼っていることに気づく。長期休みには遊びに来てください~といったフレーズのそれを見ると、そういえばもうすぐ世の中は春休みかと思い出した。大学生にとってはもう春休みなのだから、感覚がおかしくなっても仕方がないとわかってもらいたい。そういえばその長期休みの間、バイトをたくさんして欲しい物を買おうとしていたことを不意に思い出してイラッとする。あ~嫌なこと思い出すわ。 何枚か続く広告の端には、それとは違う地方を周るスタンプラリーのポスターがあった。そこには今を時めく芸能人の写真が、これまたでかでかと貼られていた。 そのカッコよさに思わず、口から言葉が零れる。 「松野だ……」 本名、松野おそ松、カラ松、一松、十四松、トド松。彼らは全員芸能人。―――じゃない。 実際は、仮面ライダーで初主演を飾ったカラ松と、同じ時期に歌手としてデビューしていたおそ松が『顔が似てない?』とネットで話題になったところから兄弟が全員出演することが決まった。 当初は双子か何かかと騒がれていたが、実際は五つ子だった。 それがまたテレビを騒がした。しかもただの五つ子じゃない、イケメンの五つ子なのだ。 演技派俳優として芽を出しはじめていたカラ松は、ドラマに引っ張りだこで最近はバラエティー番組にも呼ばれるようになっていたし。 口下手な一松は、出演当初『兄弟とはいえ彼は出さない方が良いのでは―――』というスタッフの考えを覆し、その根暗な中にある統率力によって芸人の散らかしたギャグをまとめたりという需要が認められて、最近では様々な番組に呼ばれている。 もともとプロ野球を目指していた十四松は、野球に関われるならとスポーツ中継の解説補助を早いうちから頼まれたりと、お茶の間にその元気な姿が好かれていた。 末弟と自称していたトド松は、本当に要領がよかった。テレビに出るよりも、出る人を裏方で支えたりと自分の人気の有無に関係なく仕事ができるようにしていた。いつの間にメイクなんて!! とはラジオで文句を言っていたおそ松の台詞だ。 そのおそ松―――彼はすごい。僕が一番、呆れつつも尊敬する馬鹿だ。歌手としての音楽番組はもちろんのこと、バラエティー番組に呼ばれれば周囲を巻き込んで問題を起こすわ(のくせに視聴率はすごく上がるし、自分で解決する)、ドラマに出れば一変して色気を見せるわで。またある時は弟をドッキリに引っ掛ける番組に出て、お茶目な反応をしたり、「お兄様にかまわないからだ!」と踏ん反り返ってクソな性格を思う存分発揮する。この長男が兄弟を今まで引っ張って来たのだろうということは、一目瞭然だった。 一人っ子な僕だからか、とてもその姿に憧れたものだ。こんな兄が居ればどれだけ退屈しなかっただろうか……。しかしそれと同時にこうも思った。一緒に居れば自分の平凡さがまざまざと見せられて、堪ったもんじゃないだろう。それならばやはり一人っ子で良かった。 なぜこんなに僕が松野兄弟に興味があるかというと、簡潔に言ってしまえば僕がファンだからだ。 きっかけはどことなく、彼らと僕の顔が、似ていることだった。 似ているからといって僕の人生が何かしら変わる訳じゃない。 そして僕は今日も、もうすぐ打ち切られるバイトに行って帰るのみ。他にバイトはしてない。サークルもしているけど、月に一回だけの活動だ。これも率先して入ったわけでもなしに、ただただ将来の就活の履歴書に『社会貢献活動を行っていました』と書きたいがために入っただけで。 なんともぱっとしない人生だ。それも良いかもしれない、変に道を踏み外してヤのつく人に追われるなんて冗談じゃないんだし。 平凡が服を着て歩いている。という悪口を高校のときに言われた僕だが、そういえば先日思わず顔を顰めた事件があった。 サークルに入っているといったが、それは所謂“お偉いさんと社会を明るくするために色んな活動をする”部だ。お偉いさんとは誰なのか。未だに僕もよく知らないが、多分市のお偉いさん。議員の人とは―――ああ違うと思いたい。時々知らず知らずのうちに雑談してて、後で先輩に言われて焦ったことはあるが。うん、大丈夫。 前回はお料理教室をした。 主旨は、将来の職に悩んでいる青年たちに選択肢を伝えることらしい。らしいというか、僕の大学が主催なのだから、そうでないと困るのだけど。 その時に僕はしでかした。  料理教室というからには料理を作るに決まっている。ちなみにレシピはクリスマスということもあって、シチュー。あとは蒸し野菜とオレンジゼリー。僕だって料理は上手くはないが、伊達に一人暮らしをしていない。危なくはない包丁さばきで後輩の女の子とシチューの具を切っていた。 しかしその際に、一緒に作業をしていた祖母に近い歳の女性が隣のおじさんに、 「赤柄さん良いのよ~そんなことは女性に任せてください」 と言っていたことが気になった。なんというか昔の考えで、女性=家事みたいな聞こえ方に思えて、正直僕は気分が良くなかった。言っておくが僕だってそんな福祉的な人間じゃない、が。それでも人としての平等には五月蠅い方だと思う。 思わず、言ってしまった。 「一緒にしましょう? せっかく料理教室ですし、良い機会ですよ」 これがどう転がったか。お察しの通り僕は要らぬお節介をこの後も、何度か焼いた。しかも極め付けといわんばかりに僕はしでかした。 ご飯をさあ食べようという時に、僕の班だけお茶を入れ忘れていたことに気が付いた。急いで僕と後輩の女の子が入れたが、まだ時間が経ってなかったせいで薄かったようで、一つのコップが台無しになった。コップは人数分しかない。どうにか時間を置いてもう一度入れると他のコップは丁度いい塩梅になった。 そのときその男性が、 「これは薄いんで捨てておきますね」 と、僕に気を使ったのか自分だけ働いていないことに気まずくなったのか、そう言って立ち上がった。 しかし僕はそこで言わなくても良いことを言った。 「いいですよ、それ。僕が飲みます。もったいないでしょ?」 僕は田舎育ちで祖母と住んでいたから、白湯もよく飲んでいた。そのせいか多少薄くても飲む。むしろ捨てるという考えが、もったいなくてできない。 僕としては当たり前のことを言ったつもりだった。すると男性が驚いた顔をして、そのコップを自分の席に置いた。 不思議に思って僕は訊ねた。 「―――あの僕が貰いますよ?」 「いいんです。……そうだ、勿体ないよな」 久しぶりに童心に返ったよ。ありがとう。 そう言って男性は笑ってお茶を飲んだ。僕は分かってもらえたことが嬉しくて頭を下げた。が、その隣で震えている人が居た。 さっき料理をしなくてもいいと言っていた女性だった。彼女は、たしか活動の中の偉い人だったはずだ。何故そんな女性が顔を青褪めていたのだろうか? その謎は、帰ってから解けた。 「え―――あのひと、社長だったの?」 そう。僕がお説教していた男性は、活動を運営するスポンサーである会社の社長だった。 思い返せばはじめに『料理を作らなくてもいいか』と提案していたときからおかしかったんだ。あの人、社長だから参加しただけで料理したかったわけじゃなかったんだろう。そんなところで僕が、「なんでしないんですか?」と強引に参加させたのは……うわあ。 きっと社長だから、そんな扱いされたこと無かっただろうに。穴があったら入りたい―――! そんなこんなで、思えばその日から運が悪いような気がする。 あっガム踏んだ。もおおおおおお。 普通こんな時はバイト帰りにすぐに帰るべきなんだと思う。思うが、買い物をしないと一人暮らしなんて破綻まっしぐらだ。なんせ食べるものがない。この時間ならお惣菜が半額のはず。電車に乗る前にデパートに寄ろうとして駅を通り過ぎ、頭の中で買うものを決める。はじめに決めておかないと目に付いた物をほいほいと買ってしまう癖がある、ということに半年前に気づいた。そりゃ出費が酷いはずだ。 昨日は唐揚げだったし、あっさりとしたものが良い。 揚げ出し豆腐とか食べたいかも。 人ごみに流されながら駅を歩いていると、ふと前から来ていたおじさんが手から腕時計を落とした。歩く姿も大変そうだったから、きっとしゃがむのも大変だろうな―――と僕は自分がまた要らないお節介を焼くだろうな、と予想していた。 そして実行した。地面に落ちていた黒い腕時計を拾い上げ、屈み気味だったおじさんにソレを差し出す。 「落としまし……」 「拾ってくれたんだね」 「た、」 「お礼をしないとね、お礼を……お礼をしないと」 ヤバい。即座にそう思った。 「っ、」 「お礼をしてあげるからね」 逃げようにもいつの間にか時計を持っていた手が、僕の手を握っている。がさりと乾燥した大きな手がにぎにぎと僕の手指を絡めてくる。……気持ち悪いっ。 腕を引こうにも、こっちは片手で相手は両手。振り払えなかった。 おじさんは周囲をきょろきょろとして何かを探している。―――まさかとは思うが、どこかお店に連れ込もうとしてるんじゃないのか? こんなんなら人助けなんてするんじゃなかったっ! 内心そう叫びながら、膝が震えてくるのを感じた。喉の奥が渇く。まさかこんなに怖いものだとは思わなった。 「べ、別にイイですから」 「お礼をするから待っててね」 「ゃ、め、ッ!」 嫌だと大声を上げるつもりが、できなかった。そんなときだった。 「その子は私の連れですが、何か用ですか?」 鶴の一声。まさにそれが似合う声。 「え、なっ! あかつかさん……?」 「お礼をしないと―――」 「私からお礼をしておくので離してあげてくれますかな? 今から少し、用事がある者ですから」 「あえっ、よ、ようじ……?」 「そうだよね。チョロ松くん?」 「っ、は、はい!」 別に用事はなかったけど、にっこりと笑っていた社長さんが頷いてほしいと言っているように見えて従った。 そこまでしても男は手を握っていたが、社長さんがそれを割るようにして僕の手を握ってしまえば、男は離さざるを得ない。 男は、僕と赤柄さんが立ち去る後ろ姿をしつこく見ていた。なんとなくそれは視線で分かっていたが、振り返ることはできなかった。 「あ、の」 場所を歩いて移動して、少し落ち着いたところでやっと僕は口を開けた。 「先ほどはありがとうございました。その、本当に助かりました」 「いえいえ、恐らくあれは病気の人ですから勘違いさせるようなことはお勧めできませんよ。私が居なかったら警察沙汰もありえますし、ね」 「はは……本当に」 「それにしてもいつもあんな、人助けをしてるんですか?」 「えっと、まあ……。でも今回のは結構反省してます。赤柄さんが居なかったらほんと、ヤバかったので……でもどうしてこんな所にいるんですか?」 「この駅の近くに、地域交流センターがあるんですよ」 「ああなるほど」 色んな施設に顔を出すことが多いと聞いていたため、なんとなく言いたいことは分かった。きっと今日もこれから帰りなのだろう。 そんな疲れた中で僕を助けてくれるなんて、本当に申し訳ないことをさせてしまった。 前回のことも含めて色々と無礼な行いを謝らなければ。とおずおずと話しかけた。 「前の料理教室のときもそうですが、色々と失礼して―――」 「あの時はありがとう」 「え?」 隣を見上げると赤柄さんは苦笑していた。 「実を言うと私の孫がね、じいちゃん柔らかくなったねって言うんだよ。いつも亭主関白気取りで孫にも話しかけられなかったのに、最近じゃ、むしろ遊びに誘ってくれてね。……君には感謝してるよ」 「そ、そんな」 「お礼と言ってはなんだが、さっきも言った通りに何か御馳走してあげよう」 は、と思う隙に赤柄さんは足を速めて先を歩いていってしまう。僕に与えられた選択肢としては、このまま従って追いかけるか、気づかれないようにそっと逆方向にある駅に戻るかだ。 しかし考えてみればすぐに分かるように、赤柄さんはサークルのスポンサーであって、これから先も付き合うことになる。このまま無視して勝手に帰るのは、あまりにも失礼だしな……。 もともと僕には選択詞なんてあってもないものなんだろう。 「えっと、宜しければお願いします……?」 「ははは。素直でよろしい」 年上の好意には甘えるものだ、という祖母の言葉は間違っていなかったようだ。前を歩く赤柄さんはチラリとこっちを振り向いてから、眦の皺を寄せて爽やかに笑った。 「君にそっくりなんだよ」 「はあ……」 住宅街に近い信号を渡ったときから顔が緩み始めた赤柄さんが、孫は僕にそっくりだという言い出した。そっくりってそれ、ドッペルゲンガー? 僕が引き気味でいるとどうも話がずれていたことに気づく。僕に似ているのではなく、同い年ぐらいだというだけじゃないかという推測もできるし。 デレデレに甘い顔をしている赤柄さんの話を要約すると、こうだ。 僕と同い年ぐらいの孫が居るのだが、その孫は僕と違ってすこし反抗期らしい。やれお菓子を買え、やれ遊びに連れていけ……じゃないと、もうしゃべってやらないぞ、と。 もしかして高校生ぐらいの女の子なのかな? それなら可愛い我儘だという彼の話は、筋が通る。お菓子を買って欲しいがためにせがむ女の子なんて、健気で可愛らしいじゃないか。 「一緒に住んでいるんですか?」 「いやあ、ときどき遊びに来るぐらいですよ。そんな一緒に住めるほど大きな家ではありませんから」 「だったら会えるのがとっても楽しみですよね」 「ええ。実は先日から来てるんですよ、孫」 「げっ」 それって孫が居るところにお呼ばれするってことか僕? おいおい冗談じゃない、帰りたい気持ちが膨らむ一方だよ。 口を結んで緊張に身を固くしていると、赤柄さんが声を明るくする。 「着いたよ。ここが私の家だ」 「……ないわ」 赤柄家を見上げて出た、最初の感想がコレだった。 どうりで住宅街とはいえ同じ色の壁がつづくと思っていた。そういえばここら辺は、市内でも有名な高級住宅街だ。 壁に落書きなんかしたらとんでもない金額を叩きつけられそうだな……。 心底どうでもいいことを考えながら、僕は赤柄さんを待っていた。日本ではおよそ一般的ではないはずの大きな大きな門の隣のインターフォンに話しかけている赤柄さん。いま思えば、彼ぐらい大御所なら普段歩いて帰るはずがないような気がする。道なんか丸腰で歩いていたら後ろから刺されそうだし。おちおち寄り道なんかできそうにない。 僕のその予想は合っていたようである。 「ただいま帰った」 『旦那様!! どうやってお戻りになられたのですかっ、車の方にもいっこうにいらっしゃらないと連絡が、』 「ああ今日は歩きたい気分だったんだ。それに良い人とも出会った」 『いいひと―――? なにはともあれ、皆様お揃いですので中にお入りくださいませ。ただちに梅山を向かわせますので』 「そうしてくれ」 うわ、なんだよこれ。 戻って来る赤柄さんにも声を掛けられない程、ひとりでに動き出した大きな門に驚く。びっくりして反射的に身体が丸くなる。人の手では開きそうにないサイズだとは思っていたけど、まさか自動式だったとは。ここまで機械は進んでいるのかと感心して、口を開けていた。 それを見て、赤柄さんが意地悪く笑う。 「いらっしゃい。私の家へ」 「は、はあ……」 うわ、なんだよこれ。 本日2度目の台詞を心の中でぼやきながら、玄関をくぐる。 これを今まで小さな家だといっていたのだと思うと、僕のアパートはもはや、家ですらないんじゃないか。そう思えるほど大きい。なにもかもが。 だだっ広いロビーにぽかーんとなったり、家の中でも靴を脱がないというスタイルに居心地悪くなったり。靴の裏に触るふかふかの感触が何とも言えない。 「ではこちらに。どうぞ佐々野さまも」 「はあ……」 佐々野、とは僕の性だ。離婚したせいで元の性はよく知らないが。結構僕はこの名字が気に入っている。 だが今は別だ。 結局執事さんにまで押し切られてしまい、広いロビーを抜けてリビングと思わしき部屋に招かれてしまった。歩くたびに良い具合に反撥してくる絨毯が、お前はここに居て良い人間じゃない、と主張しているようで居心地が悪い。 やっぱり帰ろうか―――と考えていると、大きなドアの前に着いた。 僕の背の倍はありそうな高さに、それに合わせた横幅のドア。立ち止まったということはここがリビングなのだろう。一言二言なにか赤柄さんに声を掛けてから、執事の人が頭を下げてドアをこちらに引く。 あ、これ逃げられない。 足が速いと自負している僕ですら、逃げる隙を与えてもらえないと何の効果も持たないと肩を下げることしかできなかった。 で、どうしてこうなった? 目の前に広がる光景にそう思わざるを得ない。 まだ、無視されるということは分かる。うんまあそうだろう。初対面の他人といきなりご飯を食べようなんて、気分が良くないに決まっているし。早く食べて部屋に戻りたいだの帰れだの、と罵られても仕方がない。 だがしかし。 駄菓子じゃない。だが、しかし、だ。 仮にも男――身体が細っこいと馬鹿にされようが、見間違えようがない男だ――の僕が、ナンパ男も真っ青の声掛けをされるという症状が出るのは一体、どんな病気なんだ……? 白いテーブルクロスを挟んで右の席に座る、場に似合わないラフな赤い服の男が、いつしか僕の右腕の隣で顔を覗き込んでいる。 その状況が意味不明すぎる。 「驚いた~。じいちゃんにびしっと言ったっていう馬鹿が、どこのどいつかと思ったらねえ……こーんな可愛い子だっただなんて」 チラッと眼をやれば、目を細めて笑っている男が居るのがわかる。そんな姿も様になる。そりゃそうだ―――だって相手は、天下の松野おそ松。 そう、あの有名な若手歌手なのだから。 「でもチェックにストライプ柄って、柄×柄とか一番センスないよね」 ……こちらの毒舌にファッションチェックをしてくるのは、末弟松野トド松だろう。ピンクの袖から可愛く出した手でスプーンを持ち、ニコニコ笑いながら毒を吐いている。くっそおおおドライモンスターがっでもカッコいいから許すしかないい腹立つうう。 その隣で無視を決め込んでいたのが、恐らく松野カラ松だ。服が青色だから。とはいってもテレビで見るよりも静かで、こちらに一切見向きもしない様子からちょっとばかり冷たい印象を受ける。まあ、ありがたいんだけど。 「……まあいいんじゃないの。見た感じまだ大学生っぽい」 「一松兄さんするどいでんな~僕たちよりも年下ってかんじだね」 カラ松の隣でじろじろと見ているのが、松野一松。テレビの通りに目を合わせて話すのが苦手なようで、目が合いそうになったら逸らされる。ならば見ないければいいのに、と思うが。 一松の向かい側で元気にご飯を食べているのが、確実に松野十四松だ。食べながら話すから口からご飯粒が飛びまくっている。飛距離が凄い。野球並みだ。練習してんのかとつっこみたくなる距離である。 赤柄さんが言っていた言葉をふと思い出す。 『君にそっくりなんだよ』 うん、そりゃそうだろうね。僕だってテレビでそう思ったし!  てかお菓子買ってって我儘なの、完全にこいつ等だ!! もはや可愛さのかけらもないけどな! 苗字が違うせいで気づかなかったが、よくよく見てみれば赤柄さんの顔立ちも松野の五つ子たちにどことなく似ている。いやこの場合逆か。とにかく似ている。少し考えればわかるじゃねえかよ僕の馬鹿っ。 目の前のキラキラした男たちに目が眩んで、思わず借りてきた猫のように静かにならざるを得ない。 どうかこの人たちに失礼の無いように―――芸能人に喧嘩を売るとか、洒落にならないぞ。こうなったら何を言われても怒らないようにしなければならない。 僕は愛想笑いを決め込むことにした。が、そうはいっても憧れていた僕の大好きな人たちだ。頬が緩まないようにするだけで精いっぱい。我慢できずにニヤけてしまうまでのカウントダウンはすぐそこまできている。好奇心旺盛なおそ松が僕の隣でそわそわしてくれるなんて、そうそうないことなんだし、すぐ飽きられるのは目に見えているのに落ち着いて黙っていられるハスがない。 赤柄さんの孫を無視して、僕はスプーンでポタージュを掬う。喉を潤してくれるはずの液体が詰まっていくせいで緊張がほぐれない。 数秒の無視。 周囲が静まり返っていた時、助け舟を出してくれたのは同じく無視を決め込んでいたカラ松だった。 「いい加減にしないか、おそ松兄さん」 「え~なんだよカラ松。ノリ悪いなあ」 「あまり関わらない方が良い、こんな……関わらない方が」 歯切れが悪い口調で諫めるカラ松が、兄であるおそ松を止めるが効果は果たしてあるのやら。眉を顰めて視線をうろつかせる姿は、おおよそテレビのそれとは似つかわしくない。 それにしても一般人がこんなに嫌われているだなんて。しかもカラ松という、松野兄弟の仲でも良心的だとファンの中で言われている奴に。なんというがちょっとがっかり。……って勝手なイメージを抱いてるファンが悪いんだ、こんなんじゃニャーちゃんのファン失格だ! 反省しろ僕。 落ち込んでいる僕だったがそれも、お構いなしなおそ松の言葉に邪魔される。 「いーの。俺が話したいんだからさ、それともなに、焼いてんのカラ松?」 「そういうんじゃなくてだな、」 「大丈夫だってば、ちゃ~んとお兄ちゃんはみんなのもんだよ?」 「そこじゃない」 「あら厳しい」 きっぱりと今度こそ切り捨てられたおそ松は、懲りずに笑いながら言う。 「だから大丈夫だってば! ……壊さないし」 「え?」 ふと小さくなった声に思わず聞き返すと、おそ松は「別に」と笑ってはぐらかされた。そしてむしろニッと元気に笑ってみせてくる。 「やっとこっち向いてくれた。もしかして恥ずかしがり屋? 奥ゆかしくて良いね~」 「……いや、まあ」 「俺さお前みたいにはっきり言ってくれる奴、結構好きなの。わかる?」 つまり、気に入ったってこと。 そう言って僕がスプーンを握っている手を引っ張り、彼の顔の真ん前まで持って行かれる。おいっこれじゃご飯が、てか、顔近いっ。 僕は咄嗟に手を引っこ抜き逃げる。少しあからさますぎたか。 「やっぱり照れ屋だねえ♡」 「おそ松兄さん、そんなにぐいぐい行ったら嫌われるよ~」 「うっせートド松!」 弟に囃し立てられて舌を出すおそ松は本当に子どもみたいで、さっきの小言を呟いたときの表情は嘘みたいだ。あの時は咄嗟に身体が強張った。生娘みたいで恥ずかしいけど、彼の目は何かを本気で狙うもので。頭のどこかで警鐘が鳴り響き、『あ、勝てない』と思わされた。まああんなイケメンに口説かれたら、どんな女の子でも落ちるだろう。でも生憎というか僕は男だ。そっち系でもないしな! だから僕を口説いてどうするんだと厭きれた。 兄弟喧嘩は犬も食わぬ、と赤と桃色の喧嘩を尻目にやっとご飯にありついていると、隣からくいっと服の袖を引っ張られる。 引かれた方を見ると、椅子から離れていたらしい十四松がいつの間にかそこにいた。 「だいじょうぶ」 「え、あ、はい」 大丈夫か? と訊ねられているのかと思い返事をする。 たしかに騒がしいし、大豪邸のせいで落ち着かないが、さっきまでの人に見られてご飯が手につかないことに比べると、確実に大丈夫だ。 「大丈夫ですよ」 「うん、だいじょうぶ」 僕は、優しいなあ十四松と感心しながら彼が席に戻っていくのを見る。長い袖は邪魔じゃないのかとも思うが慣れっこなんだろうな。 そうこうしているうちに晩餐は進み、夜が深まることも踏まえて僕は家に帰ることにした。 するとカラ松がどういうわけか僕を送ると言い出した。この中で一番嫌ってそうなくせに、どういう風の吹き回しだ? 怪しんで断った。しかしそうすると今度はおそ松が、「俺が送るからいいって!」と決めはじめた。なんてこった、呆れていたとはいえ尊敬する男に送ってもらうなんて! そんな無礼なことは頼めない。てか僕は男なんだからそんな必要ないっていうのに……。 どうやって断ろうかと悩んでいると、またしてもカラ松が言う。 「俺が送るぜ、マイブラザー」 しょうがなく僕はこれを受け入れることにした。本当に渋々だけど。じゃないと、長男さまと二人っきりの方が大問題だからだ。 最後まで駄々を捏ねたおそ松を放置して仕度をするカラ松は、慣れているのか手際が良かった。きっと苦労しているんだろうね。損な役回りっぽいし。だからと言って、僕たち一般人を嫌っていることは忘れちゃいない。 豪邸から出る際にお土産すら持たせてくれた赤柄さんにお礼を言うと、「またよろしく頼むよ」と好感の持てる言葉をいただけた。 そのことにホクホクしていた僕だったが、家から出て信号辺りにまで来るとカラ松との無言の空間に耐えられなくなってくる。このまま一人で帰れるんだけどな……。道だって覚えてるし、と考えていると声を掛けられた。 さっきよりも幾分軽い声色だった。 「悪く思わないでくれ」 「へ?」 「ブラザー達は悪くないんだ。いつもは、そう、大体のことには」 「はあ……」 僕はため息にも似た相槌を打つ。 テレビを見ている時から思っていたが、このカラ松という次男は言葉が足りないところがある。勘違いされる言い回しをするというか―――言ってしまえば、語彙力が無い。 「でもある一定のことになると危険だ」 「……。」 「関わらないでくれ」 「あの」 なんでそんなに僕に忠告するんですか? そう訊ねるよりも先に、駅の改札口につく。気づけば結構歩いていたようだ。カラ松は、話は終わったとばかりにフッと顔を和らげて、 「今日は楽しかったぞ。あまり話せなかったが、俺だってチョロ松とご飯を食べれて嬉しかった」 と言う。……嬉しかった? 何故楽しかったじゃなくて、嬉しかったなんだ? 疑問に思いながらも訊ねたいことはどんどん頭の中に積もっていって、ついには簡単なことしか聞けなくなる。 「一般人を嫌ってるわけじゃないんですか?」 「ん? なぜ嫌う必要がある? むしろありがたいじゃないか、人に好かれることは」 頬をちょっと染めて照れたように笑うカラ松は、心底嬉しそうにそう話した。こういう所が彼が人気の理由なんだろうな。僕はカラ松のことをすこし見直した。……もともと僕が勘違いしていただけなんだけど。 それならば。 なんでカラ松は僕が、兄弟と話すことを良しとしなかったのだろうか? 謎は深まるばかりだったがまあどうせ、もう2度と会うことはないだろうし、そう思って忘れることにした。 あーそれならもっと話しておくんだった。大好きな芸能人だったのに、惜しいことした。もっとぐいぐいと好きな人にいける性格になりたいものだ。 デパートで半額になった天ぷらをカゴに入れていると、ふと気配がした。またかと溜め息を吐きたいチョロ松だが、どうにか我慢する。それでも気分は重くなる一方だ。 ここ最近誰かに付けられている。 不運が続かなくなったと思ったらこれだ、本当についてない。気のせいだと自分を励ました時期はあるものの、駅までつけられてるんだから、ストーカー紛いじゃないのかなとチョロ松は思っている。 なにが嬉しくて男に付けられてるんだか―――。そう、相手は体格からするに男だった。どちらかといえば太っている感じの、黒い服に全身をつつんでマスクをした典型的なそれ。 別に接触されるわけでもなしに話しかけられもしないのだから放置していたが、こうもバイトの度に現れると気味が悪い。 もしかすると毎日確認しに来てるのか? てか自分と繋がりがある人間なのだろうか、と不思議に思いながらも買い物をさくっと済ませた。 いつか気の迷いだったと思い直してくれるのを待ちつつ今日も今日とて無視しよう。それがチョロ松の方針だ。 片手に、天ぷらとちらし寿司の割引商品を詰めた袋をぶら下げながらデパートを出た。そしてそのまま駅の構内に入りICカードをかざしては、最寄りの駅まで電車を乗り継いで、帰宅する。バスを使った方が楽だということで、最近はもっぱら電車の後に乗っているが、お金がもったいないので次からはやめておこう。そう決心してから何度目のことか……。 人はいっかい、ラクするとダメだよなあ。 反省反省と心で呟きながらアパートの鍵を手で探る。 セキュリティの甘さが尋常じゃないこのアパートは、女性にはやはり不人気らしく、チョロ松を含めて冴えない男が4人ほど入居しているのみだ。うち一人は彼女持ちらしく、時々下世話な声がしてはチョロ松の怒りを買っている。リア充は爆発すればイイついでにケツ毛も燃えろっ、とはチョロ松の捨て台詞だ。 やっとカバンの底にあった鍵を指で摘まみながら、アパートの近所に帰ってこれたことにホッとする。 あと5分あればつく。 バイトとはいえ疲れたことには変わりがないのだから、早く家に帰って買ってきたものをつつきながらテレビを見たい。そういえばDVDの期限ももうすぐだったと思い出す。ちなみにカラ松出演のドラマだ。 一松との初共演とかでネットで話題になっていたからどんなものかと思い借りたが、まさか兄弟愛の話だとは思ってもみなかった。役作りが上手いせいかチョロ松に兄弟がいないせいか、見入ってしまった。世界観もそうだが二人のみてはいけないような艶めかしい雰囲気を醸し出す演技が、なんとも見ているこちらをハラハラさせる。 そりゃこれは親と見るもんじゃないな。ネットで、親と見て失敗したというコメントが流れていたことを思い出した。 鍵を取りやすいようにポケットに入れようとした時、ふとチョロ松の背後から音がした。からんっ。何か容器を蹴ったような軽い音だ。 何気なしに振り返ると、そのままチョロ松は固まる。 「ぇ……」 なぜだ。 なぜ、今まで駅までしかついてきていなかった男がそこにいる? 「ぁ、ぇ」 顔が真っ青になりながら膝の力が抜けて、腰が引ける。逃げろ逃げろと神経に命令する脳が停止した。まるで前に赤柄さんに助けてもらったときのようだ、と学んでいない自分に情けなくなる。がまだ腕は掴まれていない。 そうだ僕は足が速い! 横に足を引いて家の方に走ろうとするが、このまま家を知られてもマズい。どこか逃げるところは無いかと考えても、まだここら辺の地形なんてよく知らない。大学に通いはじめて一年ちょいなんだからしょうがないといえばないのだが。 それでも逃げないとどうにもならないっ、と足に檄を飛ばす。 そのときだ。チョロ松の肩に腕が回された。 「夜道にご用心~ってね」 「え、な」 「そうそう。おそ松さ~んですよ♡」 場に似合わない軽い口調に軽いテンション。紛うこと無き松野おそ松だ。肩を組まれて碌にそっちを向けないなりにチョロ松は分析した。でもどうして彼がこんなところに居るのだろう、家はこんな所じゃないはずなのに。てか芸能人がこんなところに居て騒ぎにならないのか。 訊ねようかと思ったが、笑っていたおそ松の目が笑わずに前を向いていることに気づく。そうだ今はストーカーがいるんだった。 「こいつは、そのっ、友だちじゃなくて」 「分かってるって。ストーカーさんだろ? 迷惑してるっぽいし」 良かったおそ松は分かってくれたようだ。もしも友達だと思って、二人っきりにされたら困るのだから、おそ松にはわかってほしかったのだ。 チョロ松が見開いていた瞳孔を元に戻していきながら、胸をなで下ろしているとおそ松がそっと口を開く。 「俺がどうにかしてやんよ」 「え?」 「だからさ~またお礼してよ♡ 待ってるね、ほら早く帰った帰った」 唖然として、どういうことだと言いかけていると、肩にまわされていた彼の腕が離れて背中を押してきた。 手の甲をひらひらと見せながら男に歩み寄っていくおそ松。チョロ松が「ちょっと!?」と声を荒げる。しかしおそ松は振り返らずに、よいしょ~と気の抜けた声を出しながら一発。逃げようとした男に拳を加えた。 そしてもう一発。 もう一発、とするうちに悲鳴にも似た懇願の声が漏れ始める。「ごっ、ぶッッ! ごめ……なッ、ぐはッ!!」 それを無視して殴り続けるおそ松。 「ひィ」 そんなおそ松の姿すら怖くなって、足が竦んだ。あまりにエグイ光景に喉の奥から声が漏れる。すると一瞬ばかりおそ松が、ちらりとこっちを振り向く。そしてニヤッと口角を持ち上げた。 「見ちゃ、ダーメ♡」 なんで、こんな状況で笑えるのだろうか。そのうち胸倉を掴んでいたおそ松が、面倒だと言わんばかりに男に馬乗りになってボコ殴りにしはじめた。 (け、警察呼ばないと―――!!) じゃないと相手が死ぬ。 そう思ったチョロ松だが、ふとどうしてこうなったか思い出す。 そして真っ白になった脳内をショートさせた。何も見なかったことにしてフラフラとしながら家に帰るほどには、チョロ松は性格が悪いのだろう。 「あのさ~言ったよね? 馬鹿じゃねえの」 「っ……す、すみませ」 「はあ~。馬鹿は嫌いじゃないけどさあ、約束守れない馬鹿は嫌いなんだって。使い物にならないしさ」 殴り飽きたのか赤いパーカーの男が手を払って立ち上がる。そして手についた血を見て、「きもっ」と漏らした。 「たくもお、血が付いたじゃん。カラ松辺りがうるさいから嫌なのにさあ」 「……」 「なんだよその眼は―――元気だねえ、君も」 「いや、その」 「はっきりしろって。俺、気が長くないって知ってるだろ? 待ってあげられるのはボインな女子かチョロちゃん相手だけよ~って」 息も絶え絶えに地面に汚く転がっていた太めの男は、夜空に浮かぶ星には目もくれず必死になって起き上がる。ポケットから煙草を取り出していたおそ松は、あら頑張る、と呆れながら見ていた。 黒い服の男が、切れた唇を使って言いにくそうに口を開く。 「頼まれていたモノ、です」 「おお? レシートとれたの」 やることさえやってくれればいいのに、こんなことするから殴らないといけなくなるんだよ~。気を付けろよ? と脅しにも見える笑顔をしながら、男の手から白いレシートを取りざまに、指の先を煙草の火で焦がす。 「いひッ!!」 「わりーわりーって。でもチョロ松の家までつけるのは反則だからねえ? もしアパートまで見てたら命もなかったかもしれないけど、運良かったな」 「……ッ」 「お、マジで。天ぷら食べるのかよ。俺も天ぷら好きだからさ~なにこれ、運命ってやつ? ウケるわー!!」 よーし帰ったら天ぷら食べよっと。明日はちらし寿司にするかあ。 鼻歌を歌いそうなほどハイテンションなおそ松が楽しそうに踵を返す。慌ててその後ろを追いかける男。その顔は何か訊ねたそうにしているが、生憎夜の中ではそれは見えない。男が絶えず口を開閉して迷っていると、先におそ松の方が口を開いた。 「なに?」 「あ、」 「そわそわしてて気持ち悪いんだけど」 男は驚いて足を止める。勿論おそ松は前を見て歩いているので、後ろは見えないはずだ。なのに何故わかったのだろう。気味が悪いほど勘が良いと感心するしかない。 「今なら答えてやるよ。どーせもうクビだし」 「ッ、」 クビと言われてぎくりとなるが、男はそれもそうだと受け入れた。それならば教えてもらおうと思い切って訊ねることにした。 「あの、自分は今まで松野様に頼まれてレシートをくすねてましたが、その……あれは一体、どうしてだったんですか?」 「え、そんなことも分からない訳?」 「えッ……は、い」 なんで当たり前に分からないの? という顔をして驚くおそ松。そのことにむしろ男が不思議がっていると不意に前を行く主人が、立ち止まった。必然的に男も立ち止まることになる。 おそ松は電柱に邪魔されている夜空を見上げ星をみて、笑った。およそ星を見ている人間がするような綺麗な笑い方をして。目をキラキラを輝かせて。あるいは十四松のその純粋な目を真似て。 「だって俺とチョロ松は一緒に住んでるんだぜ?」 「は?」 「だーかーら。今日だって明日だって明後日だって、同じもん食わねえと可笑しいじゃん。あいつは恥ずかしがり屋だから、お風呂とか寝るのは別々にしてるとしてもさあ。それ以上のワガママはきいてやれないっていうか~まっ無理矢理とかも燃えるけど前はそれして早いうちにダメになったんだし、今度は壊さないってカラ松とも強制的に約束させられたしさ~あ、今度はへま出来ないわけよ? それにあれよあれ。じわじわ責めて怯えさせるのも良いって最近気づいたってわけ。てかこれ前しようとして失敗したやつなんだけどさ? あとちょっとで完成だったのに、十四松が馬鹿しちゃって死んじゃったし、何してんのってキレそうだったよな、流石のお兄ちゃんも! 可愛い弟だから許せたけどあれが他人だったら地獄に突き落としてるよなあ。まっ、今回の『りんご』がチョロ松だからやりやすいけど。でもそれにしても、こんなに愛してるのに飯まで別とかありえなくない?」 男は唖然とするしかなかった。 「チョロ松の喉を通った食材のすべてが、あいつを作ってるんなら、俺だって同じもの喰うよ当たり前だろ。そりゃ、あいつの身体作ってんだよ? チョロ松を構成するすべてのものが安全か確かめないとダメだろ。だって俺、あいつの旦那様だぜ?」 「ぇ、いやしかし……ッ。松野様とチョロ松様はただの顔見知りじゃッ」 「はあ?」 チョロ松と一緒に暮らしてるよな、俺? 「―――ぁ」男は声が出なかった。 空を見上げていたおそ松が首だけをこちらに向けたから。その眼が笑っていると思っていたのに、ずっと目を見開いて、失うまいと血眼になってギラギラと輝かせていたから。 こんな飢えた目を芸能人がするものなのかと固まっていたが、そうじゃない。これはこの男しかできないものだと気づいた。 おそ松はまたニッコリと笑った。 「俺とチョロ松が離れるなんて、どんな世界を探してもあり得ないからな」 「『りんご』は『りんご』」 「忘れるための忘却の果実―――って言ったらきっとチョロ松は怒るよな」 カラ松はひとりで笑った。静かに、泣いているように。 「前もそのまえも、『りんご』はチョロ松の役目だった。……おかしくないか」 「だっておそ松兄さんが、ズルしてるもん」 「……知ってたのか十四松」 「うん」 ならなんで、と罵らないのはカラ松が優しいからだ。十四松は申し訳なくなってテーブルに頭を擦り付けてポロポロと涙を零す。 カラ松はどうもできずに、同じように泣く。 「いつになったらこのゲームは終わるんだっ、もう飽きただろうに兄さんも!」 「むりだよカラ松兄さん……おそ松兄さん、すごいから」 「すごい……嗚呼そうだな」 何が凄いのか、カラ松には言わなくても分かった。 そうだな。おそ松は―――執着がすごい。一度決めたら駄々を捏ねる子どものように我儘で手に入るまで執着し続ける。もしもそれが一度ならいい。だって手に入れば次の世界では諦めるのだから。 だが。 こと三男についてのおそ松は恐ろしい。 どんなに手に入れても手に入れても、何が足りないのか欲が溢れるように求めていく。まるで野菜の茎から根っこに至るまですべてを余すことなく使用する料理のように、毛から爪まで声から視線全てを欲して。 ついには殺してしまうのだから仕方がない。 何が足りないのかカラ松には理解できなかった。 「この世界の祖父まで使ってチョロ松を家によぶなんて……テレビに出たいって言ったのも、気づかせるためかっ?」 近く気づかずに役者を目指しついに叶えられたと喜んでいた過去の自分が、カラ松は憎くて仕方が無かった。 弟が苦しい目に遭うというのにそれを防げなくて一体何度目だ、と。  いつの間にか始まったこのゲーム  ルールは簡単  転生する前にグラスの血を飲み込むだけ  ただしその中に一つだけ、『りんご』がはいっている  『りんご』は特別だ  飲んだ者の記憶を消し去るのだから。 それを持ちかけたのはおそ松だった。 何度も作者の都合で死ぬことがある六つ子のこと、はたはた色んな世界に生まれ変わるのは飽きてきていたのだ。最初は誰もがその提案に、「名案だ!」と食いついた。 いま思えばあれも、おそ松の罠だったのだろう。 『じゃあみんな引いたか?』 『あれ、おそ松兄さん。なんで一つグラスが余るの?』 『良いところに気づいたなチョロ松! 六つだと誰かが絶対に『りんご』に当たるだろ? それじゃ面白くない。だから時々は誰も当たらない世界をまた繰り返してもいいんじゃね? ってこと』 『ふーん』 まあいいけど、そう言ってからすぐにグラスを傾けた六つ子たち。 未だにその世界は巡ってこない。 「―――あきらめない」 そう溢したのはいつも笑っている五男だった。 おしまい

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